靴下に空いた穴
まだ早い時間の夜の町を若者が大きな声で騒ぎながら行き過ぎ、会社帰りの人だろうか真剣な表情で家路へと急いでいた。子どもがはしゃぎながら走って行って、後ろから両親がのんびりついていく。
まるで2人だけしかいない雲の上でも歩いている様な、いやにふわふわしたカップルが、目を離したらお互いが消えてしまうのを恐れているんじゃないかと思われるくらいに熱く見つめ合い密着して、1つの幽霊の様に私達の横を通り過ぎた。
そんな活気の中に包まれていても、私達は全く違う所を歩いているようだった。彼は救急車がけたたましく通り過ぎても、よそ見した自転車が突っ込んできても、顔を上げなかった。
「あの・・・もうすぐだから、この辺でいいですよ」
坂道と小さな脇道と道路が交差する所に立っている白黄緑色の光を真っ直ぐ下に投げかける頼りないおもちゃみたいな電燈の下まで来た時に、私は思わず言ってしまった。
それは彼の気持ちを考えれば、今一番口にしてはいけない言葉の1つだったんだと思う。だけど、私にはどうしようもなかった。
私は彼をうちに迎え入れて、慰めれば良かったのだろうか。その行きずりでセックスでもすれば良かったのだろうか。それとも、このまま何も告げずに彼が気付くまで歩き続ければ良かったのだろうか。いずれにしても私の中途半端な自信のない気持ちのままでは、情熱的で純粋な彼の気持ちに対してあまりに失礼だと思ったのだ。
「ああ、うん。 そう」
「あの・・ ありがとうございました」
「・・え? 何が?」
「いえ、あの・・ お世話になったから」
「ああ。 いいよ」
「あの・・・」
私は口を閉ざした。電燈の灯りに半分だけ照らされながら斜め下を向いて、せわしなく足を踏み替えている彼は、もう目の前の私すら遮断しているようにも見えたのだ。
私達は今ここから、それぞれに違った日常を過ごして積み重ねていく事になる。例えお互いがいなくても、それなりに時は過ぎていく筈。後ろの坂を、大量のドラム缶を景気よく転がしたような派手な大きな音をたてながらバイクが上っていった。
ふと見ると彼の大きな手が白く乾涸びて、いかにも寒そうに見えた。
私は何の気なしにその手を取って、自分の両手で温めようとした。そのくらいなら、私でも彼の為に出来ると思ったのだ。その途端、彼は私を抱き締めた。
それはなにかを伝えようとする強い力だった。けれど、服の厚みなのか彼独特の抱き締め方なのか不思議と息苦しくはなかった。彼のあの日溜まりのような大きな体温を全身で感じ、私の中でなにかが弾け飛んだ気がした。新鮮なお湯みたいな暖かい液体が急激に胸に沸き上がって滲みていくのを感じた。耳元に彼の唇があるのがわかった。朝の湖みたいに落ち着いた静かな呼吸だった。
不思議と、私の中でさっきまで私を押し止めていた事柄は、消えはしなくてもあまり気にならないくらいに小さくなってしまったし、前向きな気持ちになっていた。彼の持つ力、もしくは彼の思いの力だったのかもしれない。そして、私達は本能的に悟った。一緒にいた方がいいと。
それから、3年。今に至っている。思えば、直感みたいな本能みたいな人間の心の奥底にある思いだけでずっと接して行動してきたので、今までの行動のつじつまとか過程の説明を誰かにしようとしても出来なかった。お互いだけが相通じるようなもの。それはある意味で一番信用出来る事なのかもしれないし、一番不安定で不確かなのかもしれない。
そしてそのせいかどうかわからなかったが、私達はお互いに関して細かい事はあまりよくわかっていなかった。何処で生まれて何処で育って、どんな家族がいてどんな風に育ってきただの。話す必要性を感じなかったのもあると思うし、過ぎた事は終わった事でいいんじゃないかと思っていたところもあるのかもしれない。又は話しづらかったのかもしれない。
とにかく、私はそう思って智に自分の過去を特には話さなかった。智もまた聞いてはこなかった。そして私も智の多くを知らなかった。
「おい。あんた何やってんの?」
店番も今日で2週間目になろうという夕方だった。例の如くお客が来ないのを良い事に、私は自分の仕事に集中していた。今日中に終わらせなければいけない改稿作業があったのだ。パソコン画面ばかりに気が向いていたせいで、恐らくそのお客が入ってきて更に話しかけたのに気付かなかったらしかった。何やってんのと言われて、反射的に意識が反応して気付いたのだった。
その中年くらいの柄の悪そうな男は、私を舐め回すようにじろじろ見て、大袈裟な調子で言ってきた。
「あんた、ここの店員だろ? ここの店は客がいらねーのか?」
「いえ・・ すみません。気付きませんでした」
「気付かないなんて事ぁねーだろお? 俺ぁ何回も話しかけたんだ。大体にして、あんたさっきからパチパチパチパチ偉そうに何してんだ?」
何だか面倒臭い事になってしまったなと思って、見えないように智にメールを打った。
「俺ぁな、よくこの店で買ってやってんだ。その客に向かって、何だその態度は?」
「はぁ・・すみません」
「あんたバイトか? 店長はどうした。店長を出せ!」
「生憎、今出てるんです」
「早く呼べ!お客が呼べって言ってんだ!あんたじゃ埒があかねぇ」
「はぁ・・・」
その客は増々ヒートアップしていく。手が付けられないし、もし本当にお得意さんだったら困るので仕方なく智に電話した。智は3コールで出た。帰り道らしかった。
「どうしたの?」
「なんか、怒ってるお客がいて・・・」
「何で怒ってんの?」
「わかんない。私が気付かなかったから?」
「はあ? よくわかんないな。それで何て?」
「店長出せって。よく買っている客なんだぞって」
「そんな横柄な常連なんて、俺知らないけどなぁ」
「そう思うけど、私じゃ手がつけられないの」
「わかったよ。今ちょうど向かってたから、あと10分かからずに行けると思う」
「うん。ありがとう」
智の頼もしい落ち着いた声に幾分安心して、電話を切った。男は店内を品定めでもするように見て回っている。そして、1つの汚い壷を何処からか持って私に近付いてきた。
「おい、俺に失礼な事したお詫びにこの壷1つくれりゃ、店長に上手く言っといてやってもいいんだぜ」
呆れた。何を言ってるのか。男はさっきと打って変わって、厭らしく笑いながら私の前に壷を置いた。
「いいえ。無理です。出来ません」
私はハッキリと断った。それが良くなかった。男はたちまち逆上して思いっきり私の胸ぐらを掴んだ。殴られる!とっさにそう思って反射的に目を瞑った。
「僕になにか御用ですか?」
真っ直ぐで大きな智の声が入ってきた。その声はさっきの電話の声とは違って冷たく突き放すような凛とした声だった。持ち上げられて苦しかった首から急に力が抜けたので、私はその場に崩れ落ちる様ようにしてしゃがんだ。目の前が白くぼやけた。その視界の中で、鮮血みたいに赤いものが大きくなったり小さくなったりしてチラ付く。 まさか・・こんなとこで蘇るなんて・・・
「この女、俺につっかかってきやがった。一体どういう教育してんだ? この店では客を客として扱わねーのか?」