靴下に空いた穴
「もう少ししたらナレーションの方が落ち着くと思う。そうしたら徐々に色々教えるから」
「うん。ねぇ、キャベツ刻んで」
「はいよ」
智は豪快に手を洗い、鮮やかな手つきでキャベツと規則正しい軽快なリズムを刻み始めた。まるで彼の人生そのものを主張する様な明るく軽い音。聞いていると、私まで穏やかな普通の幸せの中にいるような気になる。違う。もういるんだ。私はちゃんと正常な気持ち良い空気の中にいるんだ。二度と歪んだ息苦しいものに縋らなくてもいいんだ。
揚げ物をしながら、横目で確認するように智を盗み見た。大丈夫。智はちゃんとそこに存在している。脇見もふらず、一心不乱に包丁を動かして大量のキャベツの千切りを拵えている。そんな何気ない智を見る度に、私は何度でも愛おしいと思う感情を咲かせる。それは、なくしてはいけないくらいとても大切な感情なのだと思う。少なくとも私が智に接していく上では。もっとたくさん咲かせて、私の心を智に対しての感情で埋めなければ。もっと埋めなければ。少しでも多く。<私の心を智で埋めないと>
「出来上がり!」
智は自信満々に大皿にたっぷりとキャベツを盛って、満面の笑みで私に見せた。
私はアルバイトとして智の店で働くようになって数日程経った頃あたりから、彼の真っ直ぐな視線に気付くようになった。
最初は気付かない振りをしていたのだが、見て見ぬ振りを通すには彼の気持ちは強過ぎた。しかし私はあまりに疲れ切っていて、色々と整理する意味も含めてしばらく一人でいたいと思っていたので、余計な事は考えたくなかったのが正直なところだった。
こちらから何も反応しなければ、そのうちにきっと諦めてくれる。そう思って、いくら目が合い過ぎてしまっても、私は敢えて何もリアクションしなかった。けれど、そんな事は彼にとってみれば気にならなかったらしい。相手の気持ちなんぞ二の次。そのくせ、自分も気付かない。
智は自分に本当に正直な人間だった。時として本能のまま、心のままに行動し過ぎて自分でもやっている事に気付かないのも多々あった。自分の心を押さえ込んで不本意な事をすると、ストレスや精神的お決まりの原因不明な異常が体に出る。背中が痛くなったり。体調を崩したり。元々健康体なので余計に目立って現れるらしかった。けれど、本人は認めないし気付かない。人の意見はあまり聞かない質なのだ。
さすがに私も智の事を意識し始めはしたが、やはり怖くて躊躇してしまい目を逸らしてしまう。しまいには、そんな自分が嫌になってしまいどうしていいのか困ってしまっていた。
そのくせ、彼の行動の彼方此方に大きな感情の波を起こす。
例えば、彼がガラスに張り付いた手強い粘着シートを剥がす為に両手で必死になって顔を真っ赤にして下に引っ張っている時。私はそのガラスを押さえながら、そんな彼を抱き締めて何度もキスしたいという欲情にも似た感情を必死で押さえる。
そして例えば、さっきまで力強く説明して威厳を見せていたと思ったら、次の瞬間、自分で置いた物に躓いて壊してしまった時とか。そんなそそっかしさすら可愛いと思って見てしまう私がいた。
智はなんと言うか、独特の明るさを持っていた。例えるなら、暗い建物の隙間から差し込む日向ぼっこ出来るくらいの大きさをした日溜まりのような。外の溢れている光や輝きとはまた違った種類の暖かさが智にはあった。誰でもその日溜まりの中にいると、周りとの色々な対比もあって自然と心地よくなってしまう。そんな暖かさだった。もちろん、その日溜まりはずっとそこにあるものではなく、太陽の動きと共に移動していって遂にはなくなってしまうけれど。毎日どんな形でも必ずそこに表れる。
たくさんの人が一緒に入れる位大きくもないし、一定でもずっと強いわけでもないけれど、決して無理をしないで変わらない。それが何だかとても人間らしくさえ感じてしまって、そんな自然体の彼が私には眩しかった。私のような汚れた人間には智はあまりにもったいなさ過ぎた。
何度考えてもやっぱりそこに辿り着いてしまう。私は自分に自信がないし、その自信を回復させるだけの元気がまだなかったのだ。
そんな事をやっているうちに、私の絵本の仕事が調子良く忙しくなってきたので、のんびりアルバイトをしている場合ではなくなってしまった。
辞めますと告げたあの時の智の顔は、今でもハッキリ覚えている。
さっきまであった光が絶望に似たなにかに打ち消されてしまったあんな目の色を、一気に血の気が引いてしまった薄白い顔を、悲し気な微かに開いた口元を、私は生涯忘れる事はないだろう。誰かが本当に心から深くショックを受けてしまった事に。それも、私がそんな思いをさせてしまったという事に。
私はその一瞬で、その一言で彼の純粋で真っ直ぐな気持ちを不安にさせてしまったのだ。
罪悪感と後悔が茨のように伸びてきて、チクチクと私の胸辺りを静かに刺した。
知らないもの同士が接触していくのだから、当然価値観も意識も受け止め方も異なってくる。多かれ少なかれ、知らず知らずのうちに相手を傷付けてしまう事だってもちろんある。私も今までに知らないで傷付けてきた事も、知っていて敢えて傷付けてきた事も何度もある。だから、何ともない筈だった。
「そう・・・残念、だ」
彼が努めて平静を装うとして頑張っているのが痛々しい程わかってしまい、私の決心は大きく揺らいだ。もう私の彼に対しての思い、止まっている事も困っていた事も、ついでに忙しくて辞めるという事までが、彼の失望感に比べれば、取るに足らないどうでもいい事のような気さえしてきた。どうしてか。
<彼を悲しませたくない>
自分でも気付かずに育っていた彼への気持ちが、初めて言葉としての形を持って表れた瞬間だった。いつのまに私はこんなに彼の気持ちとシンクロしていたのかと、我ながら驚いてしまった。しかもこんなに短い期間で。それとも私は初めから、彼に対する気持ちを知らないうちに育てていたのかもしれない。
「あの・・・飯でも、食べに行かない・・・? その・・送別会代わりで、いいんだけど」
いつもの分かりやすく簡潔に短い文章ではなくて、支離滅裂な言葉を早くも出てきた喪失感の空白に混ぜて並べ彼は私を誘ってきた。居たたまれない位に動揺している。私は頷いた。
彼の動揺は続いた。店を閉めるまでの間に何度も物を落とし、居酒屋ではトイレに立った時にグラスを引っ掛けて粉々に割ってしまい、更にその破片が偶然いた他のお客のブーツに入ってしまい大騒ぎになった。けれど、挨拶や態度に常識的な筈の彼は心ここにあらずで、ひたすら呆けていた。
「ごめん・・・」
近くまで送ると智が言い張って、私のアパートまでの帰り道にぽつりと彼がこぼした。
私はなんと言っていいのかわからなくて何も言えなかった。私がなにか口にしようものなら、彼はまるで泣き出しそうなくらい落ち込んでいた。私はいつからこんなに彼の細かいいちいちに現れる気持ちがわかってしまう様になったんだろう。それもやっぱり私が彼を意識していたと言う証拠に違いないのかもしれない。そんな事を考えて、地面に目を落として進む彼の少し後ろを歩いた。