靴下に空いた穴
「そんなにいっぱい持って行ったら、家のがなくなるじゃない」
「また持って帰ってくればいいだろ。女は体が冷えるといけないんだ」
「私は寒がりじゃないから大丈夫だよ」
「お前、いつも足と手が冷たいじゃん。そう言うのは体によくない。とりあえずこれ着て」
自分の分厚いセーターを放り投げてきた。埃と智の臭いがする濃いグレーの大きなセーターだ。
「それ、良いやつだよ。すごく暖かいから。あとこれも着て」
続けて、煉瓦色の登山用みたいなジャケットも投げてきた。
「富士山に登るんじゃないんだから。こんな重装備で行かなきゃいけないくらい寒いの?」
「念のため」
今にトレッキングブーツとか雨合羽まで飛んできそうな勢いだった。私はとりあえずグレーのセーターだけを着て、上から自分のダウンベストを着込んだ。智は餌を探す熊みたいに、まだ奥でゴソゴソしている。
とっくに準備の出来た私は玄関でブーツを履いて、外に出た。雨は上がっていて、かじかむようなじっとりした寒い空気と、火事の時に上がる煙みたいな陰気な曇った空の下、対抗するように玄関脇の南天が本当に眩しいくらいの鮮やかな朱色の実をたくさんつけている。吐く息がいちいち白い。あの雲の中には雷猫が潜んでいそうだな。私はしばらく立って上を見ていた。
ふと智が呼んでいるのが聞こえた。
「ねえ、俺の靴下は? ほら、雨からもらったやつ」
「霜降りの?」
「そう」
見ると、寝室も居間も斬新なアート作品みたいに服やら下着やらズボンやらが思いっきり散乱している。はぁ・・
私は押し入れの収納ケースから、智の求める靴下を出して渡した。
「これこれ。ありがとう」
智がそれを履いている間、私は少しでも部屋を片付けようと散乱している服を拾い始めた。が、すぐに智に呼ばれた。
「見てこれ。穴空いてる。去年履き過ぎたのかも。これじゃダメだな」
「繕っておくよ。置いといて」
「他のある? 寒い」
見ると、智は裸足にスリッパを突っ掛けている。私は急いで私の焦げ茶色の靴下を出した。私にはサイズが大きかったから入るかと思ったが、少し窮屈そうだった。智は悲しい目をして、ソファーに置いてある穴の空いた靴下を恨めしそうにじっと見つめた。
「いいのあったら、また買っとくから」
「そうだね。雨の選ぶ靴下はいつも上等だから」
智は無理にでも優しく笑って、それから火の始末をして回った。小さい頃に家が火事になった事があり、更に一人暮らしをしてからも不注意で小火を出した事があるので、智はいつも神経質に火には気をつけていた。
「俺がいない時にも、火とガスには気をつけろよ。特に寝る時。雨はよくストーブ点けっぱなしで寝てるから心配なんだよ」
「ん・・・うん。・・・気をつける」
寒い中で赤々と燃えるストーブは本当に気持ち良くて、その前で猫みたいにゴロゴロしたり、うたた寝するのが私は大好きだったのだ。そのままつい眠り込んでしまい、帰ってきた智に叱られる。
「行こ」
腕時計を見ながら智が言った。私は散乱している衣服を諦め気味にざっと見やり、玄関に向かった。
住宅が立ち並ぶくねくねした裏路地をずっと奥に行った所に、蔦に埋もれながらハナミズキの真っ白い花がたくさん咲いた木みたいに智の店はあった。出迎えは昔の喫茶店みたいに赤、青、黄色、オレンジ、緑の色ガラスが嵌め込まれた扉の横で鎮座する梟の置物だった。元はおじいちゃんが経営する喫茶店だったらしい。店の形はそのままで智が古道具屋にした。
「せっかく良い雰囲気なのに、壊すのはもったいないからな」
智は鍵束から、これまたレトロなクローバーみたいな大きな飴色の鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
お化け屋敷のような不気味な音を散々たてて扉は開いた。中から湿気と黴臭さと埃の臭いが一緒くたになった空気がドライアイスの煙みたいに外に溢れ出た感じがした。智がチラッと私を横目で見た。
「少しは懐かしい?」
そんな事聞かれてもわからなかった。だって懐かしいと感じるまで長い事ここで働いたわけじゃないし。ここのバイトが決まってからすぐに絵本の仕事が忙しくなってしまい、実際働いたのは2ヶ月に満たない。懐かしいどころか、初めて見る新鮮さの方を感じてしまう。私は2つある比較的大きな窓を開けて換気した。案外明るい空気が入ってくる。
「んー・・・初心に帰った感じ。レジとか教えといて。忘れてる」
「こっち来て。レジは別に難しくない。簡単」
突き放すような冷たさにも取れる知的なトーンで説明しながら、智は手際良くさっさと教えてくれる。
ああ、そうだ。初めて会った時、この人こんな感じだったんだ。私はふと思い出した。最初は、何考えてるか全くわからないような印象だった。それに何だか威圧感があって怖かったな・・・忘れていた記憶が水中から上がって来る泡みたいに次々と懐かしく浮かんで来た。あの時は、まさかこうやってずっと一緒にいるようになるなんて想像も出来なかった。
「で、鍵はここ。聞いてる? 聞かれてわかんない事あったらすぐに電話して。雨よりお客さんの方が詳しいから、多分大丈夫だと思うけど」
「・・わかった」
「心配だな・・・もしもなにかあったら、ここに撃退用のスプレーがあるから。とにかく逃げるんだよ」
「うん」
「一応、隣の人には言っておくから。万が一おかしな雰囲気な奴が来たら、すぐに逃げる用意をしろよ」
「わかった」
「金は釣り銭くらいしかないから、金で済むなら渡しちゃっていいから。雨の命の方が大事だから」
「うん」
「それから、うちは値引きしたりしてないから。そんな事言う奴がいたらハッキリ断っていい」
「わかったから。大丈夫。なにかあったら電話するよ。ホラ、もう時間でしょ」
「そうなんだけど。心配なんだ」
「大丈夫だから。行ってきて。間に合わなくなるよ」
私は智の太い首にマフラーを巻いた。伸びかけた髭に手をジャッリと擦る小気味良い音がした。智は一瞬とても心配そうに私を見たが、すぐに気分を変えたらしく元気に言った。
「じゃ、行ってきます。くれぐれも気を付けて」
「行ってらっしゃーい」
戸口に立って、智が見えなくなるまで見送った。日の当る時間が短い立て込んだ裏路地は、早くも身震いするくらいの冷えた色の影がそこいらに落ちてきて少しずつ広がっている。
外のオレンジ色の電球を幾つか点けて店に入ると、火鉢の中で墨がルビーのように美しく静かに燃えていた。私はしばらく火鉢に手を翳してから、持参したスケッチブックを開いて本業に取りかかった。
その日は特に何もなかった。と言うか、なかなかお客の来ない暇な一日だった。結局、智には夕ご飯いるかどうかの電話しかしなかった。19時に店を閉めて、荷物を抱えてバスに乗り、家に帰った。
鼻歌を歌いながらメンチカツを作っている時に、タイミング良く智も帰ってきた。
「お疲れ様。どうだった? 大丈夫だったでしょう?」
一番心配してたくせに、まるで私が心配していたみたいに聞いてきた。自分が心配していた事は忘れちゃったのだろうか。それとも気恥ずかしいのだろうか。定かではない。変な人。
「うん。大丈夫だった」