靴下に空いた穴
読んでいるうちに、文字がくねくねと動き出して映像まで再現されそうだった。バスから見ると空は眩しく太陽が輝いていて、ビルの上や間から光を投げかけてくる。
私はそれを見ながら、クッキーの型ででも抜かれたように綺麗にボコッと空いた胸の穴をどうしたらいいのか思い、そして、それを思う自分を惨めに感じた。その穴からは、ハッキリとした感情は何も出てきそうもなかった。ただ、なにか嫌な臭いのする水銀みたいな無機質な液体が少し垂れてくる。結構しんどいレベルの自己負積パターン。
最初から見なければいいのに。どうしても見ない訳にはいかなかった。自分にとって何も良い事なんてないのが解っていながら、自分にまた無機質な液体が貯まる事がわかっていながら、私は神経を擦り減らしてそうせずにはいられない。
なにかの目的の為なのだろうか。<自分でもわからないなにか最終的な目的の為>
それとも、諦める為の正式な理由を得て、自分を納得させる為か。私は悪くないと言ったり思ったりしたい為か。自分の中に負担や負積を溜めていって、私はこんなに我慢しましたと証明する為か。でも誰に? あいつに。聞いてくれた人に。友達に。周りに。世間に。。
それが一体何になるのか。それは自分の心と神経を対価にする程、そんなに大切なことなのか。自分以外は誰も本当に自分の為には何もしてくれないのがわからないのか。それとも誉められたいのか。慰められたいのか。
あんなろくでなしの男に一生懸命にくっ付いて我慢していたなんて偉いね。バカバカしい。そんなんじゃない。そんなんじゃない。家族、夫婦じゃあるまいし、他人同士の男と女なんてそんな事したところで同情もされない。
私はこの手紙に一体何を求めていたんだろう・・・ それすら考えられない程に麻痺しているのか。
<いつのまに全てはこんなに遠くなったんだろう?>
ぐんぐん走って行くバスの窓から、手紙をちぎっては飛ばした。全部光に溶ければ良い。
「お前は俺から離れられない」
そう言われて顔を上げると、あいつの顔が目の前にあった。場面が変わっている。赤い部屋で性交をしていた。快感に歪む顔。うすら笑う口から暗示をかけるように次々漏れる呪いの言葉。やけに赤い。「お前は俺の物だ」「お前は俺から離れられない」「お前には俺しかいない」「お前は俺の・・・」
ああ、いやだ・・・ 助けて・・・ 助けて!
目を開けると、薄暗い部屋だった。窓の磨りガラスから僅かに夜明けの気配が滲み出ている。私は急いで横を見た。隣で、控え目ないびきをかいて丸まって寝ているのは智だった。
私は安堵して智にすり寄った。智は迷惑そうに後ろを向いたので、その大きな背筋のついた温かい背中に抱きついた。よかった・・・
そのまま30分程抱きついていたが再び眠れそうもなかったので、私はショールを巻いて起き上がり、靴下を履いてストーブを点けに台所に行った。息が白い。今朝はクラムチャウダーを作ろう。
アラジンストーブの火が点いて、黄色い炎が回って青い炎に変わるのを見ていると気持ちが落ち着く。私はそのまましばらく火を見つめていた。気が済むと、やかんに水を入れて上にかけた。居間ではタイマーをかけておいたオイルヒーターがもう動いている。それでもストーブを点けないと寒いかもしれない。外はまだ雨が降っている。今日は絵を仕上げないと。あと少しなんだ。
私はトースターを温めて、余っていた白ワインと水でアサリを茹でながら、ジャガ芋と人参と玉葱とセロリを出して洗って切り刻んだ。ベーコンと、窓際に育てているパセリもたっぷり刻んだ。刻んだ具をバターで炒めて、アサリの具を取り出したスープとローリエを加えて煮込む。いい匂いが漂ってきた。智はきっと目を覚ます。
温まったトースターに厚切りのレーズンパンを二枚放り込んで、鍋に牛乳を加えて塩こしょう。卵を出して割ってオムレツを作ろうとした時、後ろから静かに戸棚を開ける音がした。
「おはよう。コーヒー入れるよ。 いい匂いだ。 クラムチャウダーは仕上げにパルメザンチーズ入れて」
やんちゃな男の子みたいな可愛い寝起きの声でそう言って、智はストーブの上に乗っかって怒り狂った様に湯気を振り蒔いているやかんを取り上げた。
その横で、古いトースターが悲痛な叫びをあげてパンが焼けたのを知らせた。ラジオの音と一緒に、ドリップコーヒーのいい香りが漂ってきた。
智はコーヒーを煎れるのが本当に上手い。私は半分失敗と思われる、形のいびつなオムレツを引っくり返しながら、鼻歌を歌った。いい匂いと、いい時間が静かに波打つ台所。
「雨のクラムチャウダーは喜劇だけど、オムレツは悲劇だよな」
「・・・苦手なの」
「でも味は悪くない」
智は素直に言って、半分スクランブルになったオムレツを口に運んだ。
「今日はもしかしたら遅くなるかも、ナレーションが伸びるかもしれないんだ」
私は少し寂しさを感じながら答えた。あんな夢を見たからだ。
「そっか」
勝手に映像化されたとはいえ、自分の頭の中で起こった事で受けたダメージを智に癒してもらいたいと思うのは、きっと甘え過ぎだろうな。自分でどうにかしなくちゃいけない事だってたくさんあるんだし。そう解っていても今日は智に少しでも一緒にいて欲しかった。
「最近、店開けてないね」
「ん。あぁ、ナレーションが忙しいからな。あの店は趣味って訳じゃないから、本当はちゃんと定期的に開けなきゃいけないんだけどね」
「あそこ、家賃とかどうしてるの?」
「あそこの土地は死んだ爺ちゃんから譲り受けたもんだから、固定資産税とかしかかからない」
「ふーん・・・」
「とは言っても、生産性もなく放置しておく訳にもいかないんだよな。常連さんなんかもそこそこ付いてるし」
「私が店番しといてあげよっか」
「仕事があるじゃん」
「私の仕事に必要なのは想像だから、スケッチブックとパソコンがあれば何処でも出来る」
「ふーん・・・」
智はしばらく、例の斜視にしてコーヒーとオムレツのお皿辺りをぼんやり見つめて集中して考え込んでいた。私はコーヒーを飲んでラジオを聞きながら返答を待った。
「ま、いいか。じゃ、頼むよ。もし、お客さんにわからない事聞かれたら、電話して。録り最中以外なら出れると思うから」
智の本業はナレーターだった。古道具屋は副業だった。それ以外にも、バンドやら色んな活動を幅広く行っていた。
私が初めて智と出会ったのも、彼の店だった。なにか題材になるような物がないかと思って、路地を歩いていたら、偶然可愛らしい古道具屋があるのを見つけたのだった。あれ? こんな所にこんな店あったっけ?それもその筈。彼の多忙なスケジュールによって開店している日がまちまちなのである。偶然見つけられれば縁がありますね、とそんな雰囲気の店。
何はともあれ、智は昼からのナレーションまで時間があったので、私の全然対した事ない仕事道具をトラックに乗せて店に行く支度をした。家の中を彼方此方と掻き回して、あれもこれもと何やら色々見繕っている。私の物なんて膝の上で充分収まるくらいの量しかないのに。
「火鉢あるけど、それだけじゃ寒いよ。防寒対策で行った方がいい。あと、これとこれも」