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靴下に空いた穴

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 私は鍋にお湯を沸かし、インスタントラーメンを作ろうと思った。なにか入れられる具がないかと冷蔵庫を開けた時、玄関の鍵が開く音がして智が帰ってきた。
 外は雨でも降っているのだろうか。濡れた靴の音がする。
「おかえり」
 私は玄関でブーツを脱いで、ジャケットをハンガーにかけて軽く拭いている智に声をかけた。
「ただいまー まだ起きてたの? 待ってた?」
 ほろ酔い気分のいつもより音も口も軽い智は、顔を真っ赤にして笑った。
「寝てたんだけど、目が覚めちゃって。お腹減ったから今ラーメン作ろうと思ってたんだけど、食べる?」
「いいねぇー。食べる食べる。卵入れて。あと、野菜庫にダメになりそうな小松菜が少しあった筈だから、それも入れて」
 さすがはこの家の料理長。野菜の管理までしっかりしている。
「うん。お風呂、入ってくれば?」
「そうだね。茹で過ぎない様に気を付けて。それから、仕上げに醤油を垂らしてね。この前、お土産で貰ったメンマもあると思うから乗せて」
 細かく指示をして終いにくしゃみをしながら、智は風呂場に消えた。しばらくすると威勢の良い水の音に混じって、いい気分で歌う低い声が風呂場に反響しながら途切れ途切れに聞こえてきた。
 細かい事なしで、無条件に懐かしさと温もりの感情が気付かないくらい静かに湧いてくるお風呂の音。そして、私の好きな二面性から成る不思議な智の声。低くいのにそこまで優しくは感じない声。
 私はそれを聞きながら、智に言われた具を入れて適当に作った。お気に入りの木のテーブルの上に、リネンクロスを敷いて赤とグレー2つのどんぶりから美味しい湯気が勢いよく立ち上る頃合いを逆算したように、智が風呂場から出て来た。
「お、うまそー」
 私達は向かい合って座って、ラーメンを食べた。ラーメンの鮮度は出来上がってから7〜8分しか保たない。スピードが命の食物だった。啜ったり咀嚼したり鼻水を吸ったり忙しい音に混じって、窓越しに軒から落ちる雨垂れの音が聞こえた。
「ごちそうさま でした!」
 早食いの智は満足げに煙草を取り出して、巻き始めた。巻き煙草が好きなのだ。私もこの煙草のあっさりとした臭いは好きだった。巻き終わると智は私を見て、そのまま火を点けずにそっと脇に置いて立ち上がり、やかんに水を入れて火にかけた。どうやらコーヒーを入れるらしい。私は、まだ半分程残っているラーメンを懸命に啜っていた。
「コーヒー、飲むでしょ?」
「飲む」
 それから私達はコーヒーを持って寝室に引き上げて行った。この前、レンタルしてきたDVDを見るのだ。テレビは居間にもあったが、寝る部屋にも一台あった。
 理由は、いつ寝てもいいからと、冬は寒いから。
 そのテレビは赤くて四角い箱型の大きな古いテレビだった。アンテナが上にちょこんと乗っかっている。それを智が適当に改造して、DVDデッキを繋げた。チャンネルを変えるガチャガチャが右側についているので、チャンネルを変えるのはだいたいいつも智だった。
 窓際の私は、時々見ている途中で勝手に番組を変えられてイラッとしながらも、気持ちいい布団の中、温かい体温の智にピッタリくっ付いて、いつ寝てもいい暗い部屋で、興奮して一喜一憂しながら或いは感動して泣きながら、或いは夢見心地でウトウトとテレビを眺めているのは何より好きだった。
 初冬の冷え込みが厳しい今夜も正にうってつけだった。夜の川底みたいな青白い部屋の中、私達は前に温かいコーヒーを置いて、大きな毛布と羽布団に包まり寄り添い、私は枕に頬杖をついてテレビを見つめた。
 外では風が幾らか吹いてきたらしく、窓ガラスが内緒話でもしているみたいに小さく音をたてている。
 巣穴の中にいて守られているような安心感が、気持ち良い温度で私達を包む布団の中をほんわりと満たしていた。
 私達は好きな時に眠れるし、好きにテレビを見ていられる。それに好きなだけ寄り添っていられるし、好きな時に手を伸ばしてコーヒーを飲める。それは当たり前の事なのかもしれないけれど、自由と言う名の贅沢。
 自分一人でも編める時間なのだろうけど、誰か特別な他人とのそれとは全く違う。自分だけの色に誰かの色が入って一緒に編み上げていく時間は、一人の時には感じられない楽しさや温かさや輝きがある。それが大切な人であればある程、より一層深く多く増してゆくのだと思う。
 一人の時には特に気にもならない様な些細な事でも、そこに誰かが関わる事で新鮮さと気高さを持って輝きだす。そのいちいちの小さな輝きは、自分次第で見えなくもなるし、いつでも気付ける様にもなる。
 普段は、あまりに慣れてしまい、ついすっかり忘れがちな微妙な気持ちの動きに目を向ける事は、誰かといる為に何より大切な事なのかもしれないと、私はテレビに疲れた目を瞑って寝転がりながら考えた。<智といる為に、何より大切な事なのかもしれない>
 それから目が楽になると私は顔を上げて、隣にいる智のテレビに食い入るような顔を眺めた。そのガラス玉みたいな目にはテレビの画像が映って、色とりどりの火がチラチラ動くオパールみたいだ。
 私は智の手の平を探した。2つの手の平は、あぐらの上でガッチリとタッグを組んでいた。その1つを引き離し、私の手と合体させた。元のパートナーよりもしっくりしない2つの組んだ手を頰に寄せて、私はウトウト目を閉じた。
「お休み」
 映画の効果音や音楽や人の台詞に混じって、智の低くて優しい霧みたいな声が聞こえた気がした。


 夢をみた。
 願望とか想像とかではなくて、過去に実際に起こった記憶に多少勝手に余計な脚色をしただろうものを生々しく再現しただけの映像。
 生きている限り、頭が動作している限り、予告なし否応無しに勝手に上映される過去のフェイクドキュメンタリー映像だった。
 その内容は様々で、いつ何処で何を見るのかは決められない。ショッフルされた中の1つが偶然上映されて、更に勝手に自分も出演させられる事が大半。続けて同じ内容の場合もある。意味があるのかないのかは不明だし、それによってもたらされる効果もあったりなかったりする。ただあまり寝起きの悪い内容は出来る事なら誰でも避けたい。
 その時に私がみた内容も、あまり気分の良い内容ではなかった。
 工場の倉庫みたいな狭い所だった。天井から裸電球が垂れ下がっていて光々と私の手元を照らしている。私は廊下の気配に気を配り、必死にさっき届いたばかりの郵便物を探っている。その中にあいつからの手紙がある。それがわかるので、私は懸命に手紙の束を探った。
 公共料金の請求書と一緒に輪ゴムで固く括られて、その手紙を見つけた。
 ふざけた文字がのたくった宛先はあいつの家族だった。私はそれを素早く鞄に隠した。どうしてそんな事をしたのかわからない。けれど、どうしてもその手紙に何が書いてあるのか見たかった。
 いきなり扉が開いて人がたくさん流れ込んできた。なにかの仕事が終わったらしい。場面は変わり、帰り道、私は封筒を破いて中の手紙を取り出した。3枚の手紙には今の生活と仕事、それから女の事が書かれていた。
「雨程可愛かねーけど、今、俺彼女と住んでるんだー。結婚すんのかなんてまだわかんねーけどな。そのうちに連れてくよ」
作品名:靴下に空いた穴 作家名:ぬゑ