靴下に空いた穴
普通に言ってしまってから、何となくおかしい事に気付いた。智を呼び捨てにしている。今まで会った智の友達や知り合いは、誰もそんな風に呼んでいるのを聞いた事がなかったのだ。
この人は?
私は改めて目の前に佇んでいる小綺麗なさっぱりした感じの女性を見つめた。私よりも少し年上くらいだろうか。少し栗色っぽい長い髪を黒いロングコートに柔らかに垂らし、開きの大きな胸の形がハッキリわかる白いニットのセーターを着て、丈の短いスカートに高いピンヒールの黒いブーツを履いている。黒めがちな子犬のような愛らしいパッチリした目に、気の強そうな赤い口元がよく似合う。
「あの・・」
「あなたは智の恋人かなにかなの?」
「え・・・はい」
彼女は首を横に振って、まったくうんざりと言った感じに大きく溜息をついた。
「困るのよね。一体何年消息たてば気が済むのかと思ったら、こんな人まで作っちゃって。まったく、どういうつもりなのかしら・・・」
半分独り言とも取れるくらいの内容と声の大きさで、彼女は私に向かって呟いた。
「私は智の妻です。別居してはいるけど、私達、まだ正式に離婚してないのよ」
「はぁ・・・」
何もかもが初耳だった。そうだったのか。智は結婚していたのか。しかもまだ離婚していない。
「私はやり直す気があるの。それなのに智はいくら電話しても音信不通になってて、親族からはドヤされるし本当に大変だったのよ。この店の事だって、最近知ったの。智は何も教えてくれなかったから」
「そう なんですか」
「あなた、何も聞いてないの?」
「え・・・あ、はい」
一瞬、彼女は私を射る様ような厳しい目付きで見つめた。が、思い直したらしく丁寧に言ってきた。
「あなたには悪いけど、智に伝えて頂戴。私はやり直したいから連絡して欲しいと。2人で解決していかなければいけないたくさんの問題を放置したまま勝手に一人だけ逃げないで欲しいと。お願い」
私は何も答えられないまま呆然と突っ立ていた。急過ぎて頭がついていけないのだ。頷いたか頷いてないかはわからない。だけど、彼女は名前と電話番号が書かれた紙切れを私の手に握らせて、何度も何度もお願いと頭を下げて店を出て行った。
残された私は、状況が今イチ把握出来ずに、何も描いてない真っ白なスケッチブックを眺めて続けていた。まるでさっきの彼女のセーターみたいな色だった。そこに、彼女の身に纏っていたような黒色で、彼女が言った事が書き出されそうだった。
智はたくさんの現実問題から逃げている。そう彼女は言った。私は手の中に握った電話番号の書かれた彼女の紙切れを無意識に握った。
そして、智とやり直したいと。つまり、<再び夫婦として一緒に家庭を築いていきたい>と・・・
「ただいま」
「・・・・・・おかえり」
「? 何? またなにかあった? やけにテンション低いけど」
昼別れた時の言葉の様子とは違う私に気付いて、智は聞いてきた。けれど、早くお風呂に入りたいらしく、服を脱いだりしながらだったので、そこまで心配しているという風でもなさそうだった。
「まさか、またこの前の客が来たんじゃないだろうな」
「ううん。違うよ」
「じゃ、何?」
私が何と言って良いのか迷っていると、短気な智は待ち切れなくなって風呂に入りに行ってしまった。
はぁ・・・自分が頼まれた責任の重大性に気が重くなった。何だって私がこんな事を話さないといけないのか。苛々とフライパンを火にかけて豚の生姜焼きを作った。生姜たれの食欲をそそる様な匂いが充満した。
風呂場からは、聞いただけで湯気まで想像出来そうなくらいのポチャンとかザザァーといった類いの水音と、智がいい気分の鼻歌が聞こえてきた。ある筈ないのに桶のカポーンという音まで聞こえてきそうだった。あの山の銭湯も、毎日暖かいこんな音の類いが開店から閉店まで絶え間なくしていて、波々としたお風呂に入った時に思わず出てしまう安堵の溜息と一緒に、色んなお客さんのつやつやとした笑い声や、明るい話声やなんかが響いていて、それだけでただ安心出来たのを覚えている。
私はちゃんと世間の人の中にいるんだと。ここではみんな私自身を見て、本当に普通に話しかけてくれる。そんな当たり前の事が、裸同然で付き合ってくれる事がとても嬉しかった。私はセックスだけではなくて、人との色んな意味での接触が怖かったのかもしれない。自分の境遇を卑下するあまり、あの男が手伝って作った狭い世界の殻に閉じこもってしまっていたのかもしれない。だから、男とのそれしか見えなかったんだ。部屋に座って男を待っている時、いつも自分にとっての何もかもが終わってしまったような気分だった。
けれど、銭湯で働いている間はいつでも誰かと接していたし、いつでも誰かたくさんの人の大きな存在を感じていた。人生と言う荒波を乗り越えて生きてきた人達だけに感じる凄みとでも言うべき温かさが、あそこには隅から隅まで溢れ出ていた。いつでも白っぽい新鮮なお湯が波々と満たされていた大風呂みたいに。そこから時々外に流れ出してしまうお湯なんか気にもならないくらいの限りない寛大さがいつもあの場所を包んでいたんだ。あそこの人々は自分の過去を話題にするなんて野暮な事決してしなかった。
いつも水色のタイルをブラシで擦りながら、大きな富士山の壁絵を見てよく思った。
知ってる人も知らない人も裸同士で一緒に湯船に入って、笑って、温まって、気持ちが解されて、ゆったりして人間のとっても良い部分が見えやすくなるんだ。だからそれぞれに良い時間が流れていって良い雰囲気が出るのかもしれない。
結局私は、セックスと言う裸の触れ合いで傷ついたけど、別の意味での裸の空間に癒されたんだな。避けるのではなくて違う面を見ていく事で治していける事もたくさんあるんだと。そしてこれからもっと色んな事を学びながら生きていくんだなと。
私にとって特別なお風呂の音は、それがどんな音であろうといつでもなにかしらの影響を与えてくれる。
話さなければいけない。智がどんな気持ちで逃げているのかはわからないけれど、私が偶然奥さんに会った事にはきっと意味があるんだろうから。私達2人にとってのなにか大切な意味が・・・
私はご飯の支度を済ますと、テーブルに座って例の紙切れを見つめながら智が出てくるのを待った。
その紙切れには流暢な字で数字と名前が丁寧にさらっと書いてあった。紙を横に傾けると、今にもスルスルッと流れていきそうな感じだった。彼女は一体どんな気持ちでこれを書いたんだろう・・・
お風呂場の脱衣所から騒がしい音がしだしたので、私は急いで紙切れをポケットに隠し、冷蔵庫からカラメル色の瓶ビールを取り出してグラスに注いだ。夕ご飯の美味しそうな匂いと、グラスの中でキラキラ光りながらあがってくるビールの泡。それに、お風呂上がりの濡れた髪の智。
「はい。何だか、すごく所帯染みて感じるね」
「ありがとう。 そんなもんでしょ」
グラスを受け取って、智は一気に飲み干した。それから二杯目を継いで居間のテレビをつけた。
「いただきます」