靴下に空いた穴
生姜焼きは美味しかった。空っぽのお腹に心地よい刺激を与えながらズンチャカズンチャカ入っていく。智は脇目も振らずに夢中で食べている。良かった。
これから話す事を考えるとふっと暗い気が差したけれど、今、目の前で私が作ったご飯をがっついている智のいる当たり前の景色が、私を励まして大丈夫だと言ってくれているみたいな気がした。
「・・・今日、人が来たの」
結局、話を聞いた時の智がどんな顔をするのかをまざまざと見るのが嫌な私は、食べ終わって洗い物をしている智の後ろから、切り出した。
「どんな人? いじめられなかった?」
「女の人。その人は智を訊ねてきたんだって」
そこまで言っただけなのに、何も反応が返ってこなくなった。私の次に言う言葉に耳を澄ましているような沈黙だった。
私はなかなか次の言葉が出て来なかった。なにかを口にするとこの景色に音をたてて罅が入ってしまいそうだったから。かつて私と智が白黄緑色の小さい電燈の下に立ち竦んでいた時の空気とは似ているようで全く違う種類のものだと言う事が、変わらずに続いている洗い物の音でハッキリわかった。
「そう言えば、雨が、いつか片方だけなくしたピアスあったじゃん?青い雫みたいな」
急に話を逸らした。話したくない事や嫌な事、面倒臭い事に対して智が取る行動の1つだった。最近は滅多になくなったが、最初の一年程はよくやっていた。つまりごまかしたい。話したくないのだ。
「あれさ、俺あの後・・」
「紙を渡されたよ。やり直したいって。2人の問題から逃げないで戻ってきて欲しいって」
私は智の話をいきなり無理矢理遮り、要約して智の背中に向かって一気に言った。そして、紙切れを智の煙草の横に置いた。私があの人に頼まれてしまった事は、何はともあれやり仰せたのだ。
重荷が降りた疲労感と、これから起こるだろう不安感が混じって、奇妙な空白が生まれていくのを感じながら私は何となく天井を見上げた。ホーロー製の白い電球傘に小さな黒い蜘蛛が張り付いているように静かにとまっていた。寒くて半分眠っているからそんなに動きがない。
蜘蛛と同じように智も微動だにせず、何も言わなかった。私も何も聞こうとは思わなかった。
とりあえず、私達はそれから何も話さずいつも通りに過ごし、眠りについた。
次の日も、その次の日もほとんど言葉を交わす事が出来ず、更にちょうど入った智のナレーション関係で行き違いの生活を送った。けれど、朝、目を覚ますと智が隣にいる事はやっぱり変わらなかった。どんなに苦しい空気が2人の間に流れても、それだけで私は安心出来たのだ。
けれど3日目の朝、目を覚ますと、とうとう智は消えていた。正確にはいなくなっていた。服や荷物はそっくりそのまま残されていたので、持ち主だけがいなくなったのだ。
私は特別驚かなかった。何となく、智は色んな事を彼なりに考えたのだろうし、私に話す話さないと言うレベルの問題以前に彼自身で何とかしなければいけない事だと思ったからだった。
どうして智がその問題から逃げているような形を取っていたのかは、私にはわからない。けれど、いつかどうにかしなければいけないという気持ちは彼の中にずっとあった筈だと思うし、その為のきっかけを私なりあの彼女なりが与えたのだと思う。遅かれ早かれ避けられない事だったのだと思う。
台所のテーブルの上には、私がなくした筈の青い雫型のピアスが置かれて、凍てついた窓ガラスから差し込んでくる鋭い冬の朝の光を反射して、青く美しく本物の宝石のようにキラキラと輝いていた。
これからどうなるのかなんて何も考えられなかったし、予想もつかなかった。このまま智が帰ってこない事だって充分有り得た。それとも、後で荷物だけ取りに来るかもしれない。
ああ、いいや。考えたくない。何も。私はただ、ここでいつも通りに生活していくしかないのだ。そう思い、私はトーストと牛乳を温めて飲むと、仕事部屋兼書斎に籠った。
気付くと、時計は夜中の0時を回っていた。部屋には彼方此方にスケッチ画やらイメージ画がインクで書き散らかしてあって、うたた寝でもしていたのか私の前にある画用紙は幾つも幾つもインクの漆黒のシミが垂れては広がりして、なんとも酷い有様になっていた。見ていると憂鬱になって吸い込まれてしまうんじゃないかと思われるくらいの黒さに、ぞっとして慌てて破り捨てた。
私の絵はインクで書く。それも黒だけで。
昔、銭湯で子ども達に描いていたのも黒インクだった。それしかなかったと言うのもあるのかもしれない。おかみさんのいらなくなった古いインクをもらって、割り箸の先を削って鉛筆みたいにして、それにインクを浸けて描いたのが最初だった。
白い画用紙の上の黒だけの世界。きっと私の心はまだこんななのだとも思う。色彩に挑戦しようとした事もあったが、まだ上手くはいかない。結局、黒で描く方が安定してしまうのだ。
よく、眺めていると寂しくなるとか、怖いなんてコメントをもらっていたのも事実だった。どうやら、私の絵本の読者は子どもよりも大人が多いらしかった。つまり子ども向けではない。だからこそ、もっと安心して読める子ども向けの続き物シリーズをと薦められたのだ。
私にとっても良い経験だと思ったので引き受けはしたが、何しろこんな状況と若干不安定な心情で本当に描けるのだろうかと、部屋に散らかったラフ画を拾い集めながら今更ながら不安になってしまった。
お腹減った。なにか食べよう。
ヒンヤリした台所に行って、冷蔵庫を開けた。手前に2日前の鮭マリネの残りを見つけた。他は私が作ったレモンのマーマレードと、2人の永遠のお気に入りブルーベリーコンフィに近いジャム。バターとナチュラルチーズの塊、智お手製のラー油、梅干しに粒マスタードとコーヒー豆、それに細々とした調味料なんかが収まっている。それに卵。
野菜庫にはトマトと白菜とシメジ、それからレタスがあった。あまりの空腹で、冷凍庫まで覗く前に卵を半熟の目玉焼きにして、焼き上がったチーズトーストに乗せて、残り物のマリネにレタスを少し足して一気に食べた。どかどかと胃袋に食べ物が流れ落ちていく音が聞こえた。ある程度落ち着くと、インスタントのコーヒーを飲もうと、やかんにたっぷり水を入れて火にかけた。
外は冷たい木枯らしが吹いているらしく、窓ガラスが寒そうに震えている。カーテンを閉めなければ。ストーブにあたってウトウトしながら、そう思った。
視界の隅でやかんが湯気を立て始めていた。それでも動けずに私の意識は遠のいていきそうだった。何だか、疲れたな。
勢いよく鳴り響く火が消される音と大量の蒸気で私は目が覚めた。やかんのお湯が吹きこぼれていた。やっと我に帰り、立ち上がった。
体がだるい。コーヒーを入れるのも億劫だったので、そのまま火を消し戸締まりをして布団に潜り込んで寝てしまった。
途方もなく寝ていたのだと思う。
どのくらい時間が、下手したら日にちが経ったのかすらわからないくらいに、ひたすら眠っていた。
目を開けると、明け方とも夕暮れともとれる弱々しい光が磨りガラス越しに滲んでいた。