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雪の桜

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 休日の午後、六本木の家具店で修一が欲しいと言っていたアジア調のローテーブルを買った帰り道だった。修一は前から気に入っていたローテーブルを、その店に通い詰め値切りに値切ってやっと購入する決意をしたのだ。修一の交渉術は見事なものだった。私はその店にあったガラスの棒を重ねて創られたランプが欲しいと思った。このランプからガラスを通して乱反射するいくつもの星のような光を見ながら、修一と未だ尽きぬ話を夜通ししたいと思った。修一はそのランプも一緒に買ってくれた。
 帰りの車の中で修一は言った。
「僕も、自分の人生がこれほどまでに劇的に変化するなんて舞子と出会うまで思っていなかった」
 三十二年かけてやっと会えた人だ。この幸せを絶対に壊したくない。もし壊れてしまったら、とたまに怖くなる。今が幸せの絶頂だとしたらここから落ちてしまう事がこの先起こるのだろうか。そう思うと怖くて寝られなくなる。だから、そんな事を考えるのは辞めよう。今が絶頂だとしたらもっと頂上を高く作っていこう。これから結婚して子供を産んで、もっともっと違う種類の幸せを作って行こう。不安は思うと現実になってしまうから、考えるのを辞めよう。そう言いながら私の手を握った修一の手には強い力が込められていた。その時私は、修一と同じ気持ちを共有している事に安堵し心強さを感じるとともに、もしかしたら私よりも修一の方がこの幸せを失ってしまう事への恐怖心が強いのではないだろうか、と彼の手から感じとっていた。

 不安は現実になる。この私自身の不安も、叔母に対する不安と同じように葬り去らなければならない。

 修一は柿谷と叔母の関係を知っていた。柿谷から聞いていたようだ。私も、修一と付き合い始めた報告をした後に、叔母から柿谷との関係を告白されていた。叔母のマンションへ荷造りの手伝いに行った時だった。
「舞ちゃん、プラナリアって知ってる?」
 叔母は突然私に聞いてきた。私は何年か前、女子高生がプラナリアという生物の研究で何かの賞を受賞したニュースを思い出した。可愛い女子高生が母親手製だというプラナリアのぬいぐるみを持って微笑んでいた映像が思い起こされた。あのプラナリアのこと?と尋ねると叔母は笑いながら頷いた。
「プラナリアの事、柿谷さんは田辺さんから教えてもらったらしいわよ」
 叔母は前置きした。修一ならそういう、世の脚光を浴びないマイナーな生物の事に詳しそうだ。
「プラナリアって、身体を二つに分断されると、その二つがそれぞれ一匹のプラナリアになるんですって。だから、一匹の体が十個に分断されたら、十匹のプラナリアになるの。凄い生命力でしょ。地球上で最後に生き残る生物はゴキブリでも細菌でも無くてプラナリアかもしれないわね」
 と叔母は真剣な顔で言った。私は叔母のこういうところには慣れている。真剣な顔という事は本気で言っているのだ。そんな話を聞くと、SF怪奇映画に出てきそうなグロテスクな生物のイメージしか思い浮かばないが、実際にプラナリアの写真を見ると、意外にも愛着の持てる外見をしている事を私は知っていた。地球がこんな利己的で身勝手な人間に我が物顔で支配されず、そんな可愛らしい生物だけのものになるのであれば、それはそれで地球にとっては素晴らしく良い事なのではないだろうか。私も真剣にそう思った。こういう時、やはり私達には同じ血が流れているのだろうと思う。血は争えない。
 叔母が言うには、柿谷は
「僕達はきっと一匹のプラナリアだったんだよ。ふたつに引き裂かれて、お互いに片割れを探して今まで生きてきて、やっと出会えたんだ。だからこんなに惹かれ合うんだよ」
 と叔母に言ったという。私はあの、もう五十歳をとうに超えている紳士的な柿谷がそんなセリフを真顔で口にした所を想像して、飲んでいた紅茶を噴出しそうになりながらも、恋愛とはこういうものであり、きっと今の修一と私も同類だろうと我が身を振り返る余裕も持っていたことに、我ながら少し安堵した。
 
 恋愛とは、どのような賢者であっても偉人であっても、瞬時に愚者に成り下がる事象のことである。脳が侵され、平常心では考えられない恥ずかしい事を平気で考え口に出すような、性質の悪い、この世で最も素晴らしくおめでたい病なのだ。叔母は、この年になってこんな気持ちになると思ってなかった。と呟いた。叔母の気持ちが痛いほどよくわかる私は、この私達の幸せが永遠に続くように、と、天に向かって心から祈った。

 柿谷には、やはり家庭があるらしい。妻とは事実上別居をしているが、世間体を気にする妻は離婚に合意しないということだった。別居は叔母と知り合う前からずっと続いているそうだ。そういう場合、別れないという女の方にまだ愛情が残っているのは明らかだ。私は柿谷を信じ、頼り切っている叔母が傷つく事が起きないよう、願った。

 柿谷のプラナリアの話をしたとき、修一はこれ以上できないほどの呆けた顔を暫く変えられなかった。その後に修一は悔しがった。プラナリアの生態を柿谷に教えたのは自分なのにこんなに良い喩えを自分は思いつかなかったと。そして二人で大笑いした。その笑いはもちろん自分達にも向けられたものだった。私達はここまで馬鹿になれるほどに愛し合えた自分達を、柿谷たちを、幸せだと思っていた。

 叔母がクリスマスと年越しをロンドンで過ごす為に出発する数日前、修一と私と叔母は初めて三人で食事をした。叔母はこの世に永遠の春が到来したかのように華やいで軽やかに見えた。いつも笑顔の叔母だが、いつもよりもずっと多く笑っていた。鍋が食べたいという叔母のリクエストで、修一が神楽坂の比内地鶏がおいしい鳥鍋屋を選んだ。
「柿谷さんもとっても喜んでいたのよ。二人が付き合い始めたって聞いて」
 叔母はロンドンでの今後の話や、私の画廊経営の話などにはもはや興味が全く無いようで、修一と私の恋の話が一番の関心事であるようだった。鳥鍋を囲みながら飛び交う会話は、主に修一と私の付き合いについての叔母からの質問や冷やかしであったが、叔母と修一が話す会話の中には、修一について私が知らない話の端々もあった。 
 修一が仕事の事でつい最近柿谷に相談を持ちかけたという話、柿谷が修一の身体の調子を心配していたという話、一度ゆっくり修一と話したいので、近いうちに電話すると柿谷が言っていたという話。

 修一の両親はもう亡くなっていた。兄弟もいない。修一の父親は真面目で誠実な公務員だったが、修一が幼い頃に事故で亡くなった。小学生になると母は再婚したが、修一は母親の祖父母の元に身を寄せ、祖父母に育てられた。中学生になり祖父母が亡くなると、母親と再婚相手と一緒に暮らした。母親と再婚相手の間には既に二人の子供がおり、居場所を見つけられなかった修一は高校生になってから一人暮らしを始めた。幸い母の再婚相手が裕福だった為、修一に与えられる生活費は高校生にしては多額で、経済的には恵まれていた。大学に入ってすぐに母親がガンで亡くなった。遠い親戚はいるが普段の付き合いは無い。母親の再婚相手は修一が大学を卒業するまで経済的に支援してくれたが、書類上の親子以上の感情をお互いに持っていない。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清