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雪の桜

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「結局、わかりそうでわかりませんでしたね。アロワナの気持ちは」と修一は言った。私達は笑いあった。
 
 修一と私は、周波数が同じだった。興味の対象、ひとつの物事について感じる事、大切だと思うこと、好む事、好まない事、そういうあらゆる事が、そしてスピード感やテンポまで、私達は似ていた。私はこのことを相性が良いのだと解釈していた。こんなに自分と合う相手というものがこの世に存在するのかと、驚きと同時に、それよりもはるかに大きい喜びを感じていた。

 水族館を出ると夕方になっていた。私達は横浜で食事を取る事にした。中華街で中華料理を食べた後、修一は雰囲気の良い落ち着いたホテルのバーに連れて行ってくれた。そこでも尽きる事の無い話が繰り広げられた。私達はお互いの生い立ち、現在に至るまでの様々な経験、何か好きで何が嫌いか、趣味、将来の夢、思いつくありとあらゆる事を話し合った。
「今日は私達、一日中話していますね。でも、時間がいくらあっても足りないくらい」
 と、私は言った。修一は頷いた。突然修一はポケットから紙包みを取り出した。
「これ、今日の記念です」
 と言って渡してくれたものは昼間に行った水族館の紙包みだった。私が化粧室に行っている間に買ったのだと言う。中を見るとシルバーのチェーンに小粒のパールと小さなガラスのイルカがついた携帯ストラップが入っていた。可愛い。と私は喜び、御礼を言った。すぐに携帯に付けるとシルバーのチェーンとイルカはキラキラとバーの照明を反射して輝いた。綺麗。と言った後に
「私、今すごく楽しくて嬉しいです」
 と付け加えた。修一は
「もっと一緒にいたい」
 と言い、私は頷いた。私は今まで少なくとも会って数回の男性と深い仲になった事はなかった。時間をかけてお互いを理解して初めて恋人関係になっていた。そこは両親の教育のせいか固いと女友達からも言われていた。けれども、会って二回目で修一の部屋に行く事にためらいは全く感じなかった。一緒に居ることが自然だと感じられた。逆に離れることが不自然だったのだ。私達は、修一のマンションに向かう車中でもまだ尽きる事の無い話を続けていた。楽しくて楽しくて、仕方が無かった。
 
 修一のマンションに着くと、修一は私をソファに座らせコーヒーを入れてくれた。ミルクと砂糖の入ったコーヒーは私の身体を暖めてくれた。私は、今度は修一の好きな曲を聴きたいと伝えた。修一はモノクロ写真のジャケットのCDを選んだ。窓辺に置かれた花と花瓶を写した写真だった。Keith Jarrett/The Melody At Night, With Youと書いてあった。キース・ジャレットの名前は知っていたが曲を聴いた事は無かった。私達はソファに座り彼の優しいピアノを聴いた。
「一曲目が一番好きな曲です」
 修一は言った。その”I Loves You, Porgy”と言うタイトルの曲はどこか物悲しく切ないけれども、とても綺麗なメロディだった。
「綺麗な曲」
と私は呟いた。
 「この曲はいろんなアーティストがカバーしているらしいけど、僕はこのピアノしか聴いたことが無いんです。でも、このピアノはとても綺麗だから、他のカバー曲を聴きたいとは思いません」
 と修一は言った。美しいが、切なく力強い曲だった。曲の世界に入り込み、私は彼に身を預けた。私達はゆっくりと、優しく、時間をかけて力強く、抱き合った。あの、幸せの香りが私を包んだ。はじめて会った日からずっと包まれることを望んでいたあの香りにやっと包まれた私は、既に現実から遠い世界に存在していた。ずっとこのままでいたい、と修一は言った。私も同じだと応えた。そのときの修一は子供の様だった。瞬時に顔を綻ばせ、嬉しさをこれ以上表現できないくらいの笑顔で表し、私を抱きしめる腕に力をこめた。修一の笑顔は私も笑顔にさせた。
 修一は、今日は抱き合って一緒に寝るだけで良いと言った。その夜、私達は抱き合って何度も軽いキスをしながら寝た。修一の言葉に嘘は無かった。修一の目は真剣で、腕の動きは優しかった。

 それから私達は急速にお互いの距離を縮めて行った。お互い仕事が忙しい時期だった為に平日はなかなか会えなかったが、必ず電話やメールでお互いの気持ちを伝え合い、週末から月曜の朝まではどちらかのマンションで一緒に過ごした。土日の昼間にはドライブに出掛けたり散歩をしたり映画を見たり、気の向くままに一緒に時間を重ねた。時間を重ねるごとに、私達は今まで経験が無いほどにお互いが深く結びついて行くのを感じていた。

 私の生活も、私自身も、修一と出会う前と出会った後とでは全く別のものになった。修一に出会って初めて、出会う前の私の日常はねずみ色の霧に覆われていたという事に気付いた。修一のいる今の世界はくすみが無く、鮮やかな色で満たされていることに驚いた。いままで心華やぐ恋をしたり、充実した生活を送っていたときに感じていた色鮮やかさも、今の世界と比べるとくすんでいた。どんな時も、常に暗い願望が身を潜めながら私を監視しているのを感じ、その影に怯えながら、でも離れられずに生きてきた。その願望がねずみ色の霧となり、くすんだ世界を作っていたのかもしれない。今は、今まで視界に入っても興味を引かなかった日常生活で目にする物ひとつひとつが美しく輝き始めている。日の光の暖かな恩恵を感じ、月や星の光の静かなる美しさを感じた。何十年も変わらずに赤や黄色の葉をつける木々の力強さを感じ、道に生える草の生命力を感じた。人の優しさを感じ始め、人の笑顔が尊く感じられた。鏡を見るたびに自分の顔が柔らかくなっていくのがわかる。世の中の全てが素晴らしい希望あふれるものに見えた。生きる上で感じていた様々な恐れが、姿を消して行った。周囲から綺麗になったと言われた。修一そのものが、修一と一緒にいる自分が、修一と一緒に過ごす時間そのものが、愛しくて仕方なかった。修一と一緒に時を過ごす事で築き上げつつある私達の関係が、宝物だった。世の中に存在する全ての言語の、全ての良い意味の言葉を用いたとしても、決して表現する事が出来ないほどの大きな、特別な幸せだった。言葉で言い表せない事がもどかしかった。この時を迎えるために産まれてきたのだと、産まれて来た意味をやっと理解出来たのだと思った。こんな感覚を始めて知った事で、世の中の多くの人の仲間入りが出来たと思えた。暗く重い願望を抱かずに、生きる事を謳歌し、人生に多くの喜びを見出せる人達と、やっと同じになれたのだと思った。
私の人生はやっと変わったのだと、やっと暗闇から抜け出せたのだと、疑いなく信じる事が出来た。

 こんな風に、まるで映画のように劇的に自分の生活が変わるなんて自分の人生にはありえないことだと思っていた。この幸せを失ってしまったら、と思うとたまらなく怖くなる。そうしたら今までよりもずっとずっと、この幸せを知る前よりも辛く悲しい人生になってしまう。と私は修一に伝えた。長年私を捉えてきた、今はそのなりをひっそりと鎮めている、私の重く暗い願望の話もした。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清