雪の桜
社会人になってからは上司だった柿谷がずっと親代わり兄代わりとして、お互いに会社を退職した後も彼の面倒を見てくれているという。柿谷には恩があり、柿谷がいたからこそ自分はこうやってまともに生活をして行けるのだと修一は話していた。父親に教えてもらう事が叶わなかった事を、柿谷に教えて貰ったと。
私は、私には理解する事が難しい傷が修一にあるならば、その傷を暖めて癒したいと願っていた。その頃の私は、自分に限界というものが存在するということを知らなかった。他人の苦悩を人はそう簡単に理解する事は出来ず、ましてや他人の傷を癒すことは意図して出来るものではないということも、知らなかった。安全で快適な浅瀬に生きてきた私は、海底の奥底から嵐の中を潜り抜け荒々しい岩場を通り抜けて浅瀬に辿り着いた人間の苦悩など、到底理解できるはずが無かった。私は修一を理解して癒したいという自分の浅はかさ故の驕りを愛情だと勘違いし、愚かにも自分にはそれが出来ると信じ込んでいた。
こってりとしただし汁が美味しい鳥鍋が終盤に近づき、しめの麺が用意される頃には、三人ともすっかりほろ酔い気分でくつろいでいた。
「今頃柿谷さん、一人で寂しがっているでしょうね」
修一は先日柿谷と電話で話したことを伝えてきた。恐らく、散々私達ふたりののろけ話をする結果になったため、この場に一人でいる叔母への気遣いのつもりで柿谷の話を出したのだろう。
「真樹さんに早く来て欲しいみたいでした」
「私が恋しいのか、寂しいだけなのかわからないわよ」
叔母は少し照れたような口調で言った。
「何を言ってるんですか。プラナリアの話聞きましたよ」
修一は返した。
「ああ。可愛いでしょ?あんな叔父さんが。あの人のああいうところは大好きよ」
叔母は照れもせずに言葉にしたが、その後に続けた。
「あの人は表現が素直だけど、その気持ちがいつまで続くかは別問題よね」
修一は叔母が何を言おうとしているのか、推し量りかねている様子だった。
「私はね、好きで柿谷に着いて行くの。自分の気持ちが大事なだけ。じゃないと、こんな関係は続けられないわ」
叔母は箸を休めて、決意するような口調で話を続けた。少し酔いが回ってきたようで、ほんのり顔が赤くなっている。叔母は酔うといつもよりも少しだけ饒舌になる。
「谷崎潤一郎の春琴抄という小説を読んだことある?」
私は谷崎潤一郎の小説は「痴人の愛」しか記憶していない。ある少女の存在によって人生を狂わせられる男の生き様が描かれた小説だが、その男女の立場が変わってゆく過程の描写が印象的で記憶に残っている。男女の心理の変化に、深い恐怖を覚えた記憶がある。春琴抄は修一も私も読んだ事が無いと伝えると、叔母はその小説のあらすじを話し始めた。
「盲目の美しい春琴という少女に佐助と言う少年が幼い頃から仕えるの。佐助は春琴をうやうやしく崇めて誠実に仕えるのよ。三味線の名手である春琴に影響され佐助も三味線をはじめ、盲目の春琴と同じように暗闇の中で目をつぶって弾いたりもするの。そうやって佐助は春琴を主人として師として、長年一途に仕え続けるの。ある日、他人の嫉妬によって春琴はその美しい顔にやけどを負わされてしまうの。春琴がこんな顔は世話役である佐助にも見られたくないと拒絶すると、佐助は自分の目を自分でつぶして、春琴のそばに行くの。『お師匠様、もう私には見えません。ご安心下さい』って」
「すごい話ね」
私は背筋に寒気を感じた。愛する人の為に自分の目を潰す。しかも、その人の「顔を見られたくない」という気持ちを汲み取った証として。
「究極の愛ですね。愛する人の為にそこまでするなんて」
修一は感銘したようで、そう口にした。
叔母は意外にも冷ややかに言った。
「それがね、物語の中では佐助が目をつぶしたのは春琴への愛からだけじゃなくて、佐助自身のためでもあると書かれているの。彼の中で美しい春琴のイメージを永遠に守るため」
叔母は熱が入ったようで、話し続けた。
「きっと佐助は春琴に尽くすことが生きる目的だったのよ。自分には観音様のような存在が必要だった。その対象が穢れてしまうのは彼にとっても困るから、自分の中で永遠に美しい春琴を留めておけるように目をつぶしたのよ」
叔母は続けた。
「恋愛って、結局は自己愛なんじゃないかしら。相手は単に自分が求める対応や反応をくれる人で、結局は自分の為にその人を失いたくないから思いやるとか大事にするとか尽くすとかの行為をして、そういう行為を愛だと解釈しているだけで」
それは私も同意見だった。叔母と私はその点の考え方が似ている。
「それは一理あるけど、冷めた見方ですね」
修一は反論した。
「そうすると、自分の求める反応をしてくれれば相手は誰でも良い事になって、運命の出会いなんて無くなりますよね。なんか空しいなあ。それは」
「男性のほうがロマンチストなのよ。女のほうが頼りなく見せかけて現実主義なの」
叔母は、その愛らしい笑顔で修一のぼやきをすぱっと切り捨てるかのように言い放った。
「柿谷さんには内緒にしておきますよ。真樹さんの愛情が自己愛だなんて聞いたらショックで寝込みそうだ」
修一はこれらは叔母の酔った上での発言で、本気では無いと思い込んでいるようだった。
だが、叔母の言葉の意図は、私には痛いほどよくわかった。叔母は、そう言葉にする事で自分に暗示をかけているのだ。そうやって理論的に解釈する事で、柿谷への愛情をセーブしようとしている。万が一、柿谷と離れることになっても自分が崩れないように、という彼女の自己防衛の手段なのだ。そして、柿谷の愛情にも過大な期待をしないように自分を抑えているのだ。私も叔母と似ているから、叔母の気持ちが痛いほどよくわかる。女も経験を重ねると臆病になる。若い頃のように全てを捨てて無防備に男性の胸に飛び込むことは出来なくなってしまう。年とともに、受ける傷も深くなるから。叔母は残った日本酒を飲み干して言った。
「でも、女には深い情があるの。女の愛情は情なのよ。きっと。だから、女を離れさせたくなかったら、情に訴えかけるしかないわよ」
そして叔母は、少し反省したように一呼吸置いてから言った。
「なんて、これじゃ二人の盛り上がりに水を差しちゃうわね」
叔母は話を切り上げようとした。
修一は
「僕たちは大丈夫ですよ」
と私の目を見て言った。
「何があっても壊れませんから」
私は修一の目を見て笑って頷いた。
「あなたたちは安心だわ」
叔母は微笑んだ。
「最終的にはね、ロマンチストな男に負けるのは、女の情なのよ」
「一般的に、ね。舞ちゃん」
そう言って、叔母は私にウインクした。私は笑顔で頷いた。叔母は少し間を空けて
「貫けるものなら、貫きたいわよね。自己愛を」