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雪の桜

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 なんという愚かな生き物なのだろうか。かくいう私は最も愚かな女だ。女には、そんな幸せと不幸が交互に訪れる。お互いの立場を交代しながら、傷を舐めあい助け合いながら、時には足を引っ張り合い、故意に傷つけ合い、それを許し合いながら続けていくのが女の友情なのだ。私と叔母の間にも、きっとそんな友情に似たものが存在しているのだろう。
「ロンドンに行ったらこんなに美味しいフレンチは食べられないわよね」
 食事を終えた叔母は、発した言葉に反して満足そうだった。例えこんなに美味しいフレンチが食べられなくても、ロンドンに行くことが嬉しいらしい。
「このレストラン、柿谷さんも連れて来たいわ。そうだ、今度帰国した時に四人でまた来ましょう」
 そう言う叔母は、わたし達の輝かしい未来は確約されていると信じて疑っていないようだった。四人とはもちろん柿谷と修一と私達のことだ。
 叔母が気に入ったそのレストランの名は、日本語に訳すと「真髄」という意味だった。その言葉は私の中の何かを刺激した。
「真髄って、奥行きのある良い言葉ね」
 私は誰に言うでもなく呟いた。今思えばこの言葉は、私達四人がこれから、それぞれ自らの「真髄」に向かう事を予言するものだったのかもしれない。神からのサインだったのかもしれないと、今となって思う。

 約束の日の昼前、修一は、私のマンションの前まで車で迎えに来てくれた。車は身体の大きい修一に似合う黒の旧型のボルボだった。車に乗った途端、出会った日にタクシーの中で感じた修一の香りに、私の身体全体が包まれた。あの日からずっとこの香りに包まれたいと望んでいた、この世で一番暖かい幸せの香り。その香りは私の感覚を少し麻痺させた。修一と目があった私は、戸惑いと緊張で自然に微笑む事が出来なかった。
 このまま江ノ島まで行って、ランチを取った後にゆっくり水族館を見学しようと修一は提案し、私は頷いた。私は前日から浮き立つ気分を抑えられなかった。やっと修一に会えるのが楽しみで、気を抜くと自然に笑みが浮かんでしまう状態だった。そんな希望に満ちた気持ちが多くなるに比例して、不安な気持ちも育っていった。この十日間ほぼ毎日、電話やメールでお互いを知る事を求め合った。どのような手段でも良いから繋がっていたかった。繋がるたびに、関係が築かれた。そうやって築かれた関係が、実際に会う事で壊れてしまったら、という不安だった。でも、修一の笑顔はそんな不安を忘れさせてくれた。
 私が車を褒めると
「一時期、景気が良かったんですよ。その頃に買った車なんです。今はもうそんな余裕はない貧乏人なんでこの車を維持するのも僕には贅沢なんですが、愛着があるので手放せなくて」
 と、修一は丁寧に説明してくれた。修一の話し方には嫌味が無かった。そこは柿谷と似ていた。飾る事を必要としない人種の自然な振る舞いに見えた。私達は江ノ島に向かう車の中で色々な事を話した。話を始めてから十分もするともう最初の緊張は私の中からは消えうせていた。
「なんだか、ずっと前から知っているように感じます」
 私が嬉しさのあまりに言うと、修一は満面の笑みで彼もまた嬉しそうに僕も同じだと言った。彼の笑顔は、私の全てを緩ませる力を持っていた。
 第三京浜に乗ったあたりで
「何か音楽をかけましょう。選んでもらえますか」
 と、修一はCDケースを私に渡した。ジャズが多かったが、私達の世代よりも多少古い傾向があるように思えた。修一は、音楽は柿谷の影響が強いと言った。確かに私達の一回り以上の上の世代が好む曲が多いようだった。修一と同じように音楽については叔母からの影響が強い私は、その世代の曲には多少の馴染みがあった。修一のCDケースの中には私の好きなショスタコーヴィチのジャズ組曲のCDがあった。
「このワルツ、私の大好きな曲です」
 私は驚いて、修一の顔を見ながら思わずそう口に出した。修一は嬉しそうに自分も大好きな曲だと言った。クラシックは詳しくないが、この曲はたまたまCDショップで流れているのを聴いて気に入り、店員に曲名を聞いて購入したという。
「人生みたいな曲ですよね。この曲には喜びと悲しみが生々しく表現されている気がします」
 と話した修一は少し黙った後に、変だろうか、と私に質問した。私は言葉が出なかった。私と同じような感覚でこの曲を聴く人がいたのだ。私は興奮して、自分がこの曲を聴いていつも感じるイメージを修一に話した。
「同じ事を感じる人がいたなんて、嘘みたい」
 ここで運命を感じない女が居たら、一度会って顔を拝んでその人生観をじっくりと聞いてみたい。自分の中の、自分だけのファンタジーと同じものを持っている人がいたのだ。誰もがある種の縁を感じるだろう。何故なら人は、実際はそれがありふれたものだったとしても、自分のファンタジーだけは特別なものだと思い込むからだ。修一は嬉しそうだった。私も嬉しかった。私達はショスタコーヴィチのジャズ組曲を繰り返し聴いた。晴れた冬の空とこの曲という絶妙な組み合わせは、私たちを別世界へ誘ってくれた。喜びと悲しみを表現するノスタルジックで荘厳でチープな曲を聴きながら、私達はまた尽きることの無い話を続けた。
 
 水族館で、私達は童心に還っていた。修一は好きな魚を発見すると嬉しそうにその魚の生態を私に説明し、私は自分が好きな魚を見ると修一の声が耳に入らないほど熱中して見ていた。
「こんな風に女性と一緒に楽しめるなんて思っていなかった」
 修一は言った。私も同じだった。今まで付き合っていた男性やデートをした男性は、私が水族館は博物館に行きたいと行っても嫌々付いて来てくれるだけだった。彼らはそれよりも雰囲気の良いレストランやバーに連れて行く事で私が喜ぶと思い込んでいた。私はもっと子供っぽい事、どのようなものでも、好奇心を満たす事が好きだったのだが、あまり理解はされなかった。
 アロワナの水槽の前に到着すると、修一は私に言った。
「舞子さんはアロワナと話せると言っていましたよね」
 確かに初めて出会ったあの中華料理屋で私は、アロワナは古代魚に近いので特殊な能力を持っている気がする。じっと目を見ていると話が出来そうな気がする。とは話したが、話せると断言はしていない。でもそれを、修一は身を乗り出して嬉しそうな笑顔で興味深そうに聞いてくれていたことが、私は嬉しかった。
「あてっこしましょう。このアロワナが何を言っているか」
 修一は私に提案した。私に気を使って私のレベルに会話を合わせてくれているのかと思ったが、彼は本気で楽しんでいるようだった。私はアロワナの目をじっと見つめて神経を集中させた。修一も同じようにじっとアロワナを見つめていた。龍のような威厳と神聖さを持った大型の美しい銀色のアロワナだった。いかにも特殊な能力を秘めていそうな神秘的な姿だった。とは言え、いくら見つめてもアロワナの気持ちらしきものは伝わって来ない。それどころか。湾曲した水槽のガラス越しにゆっくりと泳ぐアロワナをじっと見ていたら、船酔いしたように気持ちが悪くなってきた。修一は、僕が変な提案をしたばかりにすみません。とひたすら謝り、私をベンチに座らせお茶を買ってきてくれた。気分が落ち着いた後で
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清