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雪の桜

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 という話を出した。私はアロワナをとても美しい魚だと思っていたので、興味をもってどのようなアロワナだったのか、どのように飼っていたのかを修一に訊ね始めた。修一も自分の趣味に興味を持ってもらえたのが嬉しかったようで、銀色のアロワナで三十センチほどの大きさだったと語りだした。
「突然、水槽から飛び出して死んでしまったんです」
 と、修一は言った。アロワナはその習性により水槽から飛び出してしまう事故は多いそうだ。叔母は突然話に割り込んだ。
「死んでしまったアロワナはどうやって処理をしたの?」
 修一は即座に一言
「食べました」
 と言い、すぐに
「焼いて」
 と付け足した。私は一瞬フカヒレを食べるのを中断して修一の目を見た。その目は真剣な光を帯びていた。
「愛情、と言っていいのかどうかわかりませんが、とても大切に思っていたんです。だから死を無駄にしないために、僕の体内に取り込んだというか」
 修一は、言葉を慎重に選びながら説明しようとしていた。この手の話は恐らく、多くの人には「気持ち悪い」と受け取られかねないと本人も自覚しているようだった。そこで叔母が
「捨てるよりずっと素敵ね」
 と笑顔で褒め言葉を口にしてから、修一は子供のようにほっと安心したような表情になった。私も叔母と同意見だったが、もしかしたら彼はアロワナと一体になりたかったのだろうか、と考えもして、恐る恐る
「ひとつになりたかったんですか?」
 と修一に尋ねた。修一は驚いたように私の目をじっと見て少し間をおいてから
「ええ。その通りです」
 と頷き
「でも、単に一時的に栄養になっただけですよね。どんな栄養かもわかりませんし」
 と照れるように微笑みながら会話を続けた。そこで柿谷が
「修一も舞ちゃんも、マニアックなところは気が合いそうだな」
 と茶々を入れてきて中断された話の続きが、今のお誘いだったようだ。   
 タクシーに乗ってすぐに何の前触れも無く突然話が再開されたようで、私はそんな彼を素直で可愛い人だと好ましく思った。その瞬間、私の方に身体を向けるために肩を傾けた彼から漂ってきた香りが、私の深い記憶を呼び起こした。

 時として、香りで記憶が目を覚ます。眠っていた記憶が色鮮やかに鮮明に、その時に抱いた感情の波が身体全体に行き渡る感覚と共に。

 彼のやわらかな香りは、私の忘れていた安心できる場所を思い起こさせた。そこがどこだったのかまでは思い出せない。ただ、間違いなく私が愛で包まれ安心できるなつかしい場所。唯一、私が無防備になれる場所の記憶を呼び覚ました。彼の香水と体臭が交じり合って、この世でただひとつの、私が産まれた喜びを感じる事が出来る場所を思い出させてくれた。麻薬のようだった。身体が緩やかに暖かく解き解されていく感覚を覚えた。私は彼の提案に笑いながら頷いた。この暖かな感覚をもっと感じたかった。包まれたかった。彼の香りに、早く包まれたかった。

 柿谷の紹介によると、彼、田辺修一は私の二歳年上だった。柿谷が昔勤めていた商社での上司と部下の間柄で、修一は六年前に独立して自分で飲食店を経営していた。一時期よりも経営は厳しいが都内に三店舗あるカフェを何とか切り盛りしている状態だという。実は「画廊の件での相談役」というのは建前で、叔母の熱心な薦めにより独身で恋人もいない修一と私を引き合わせてみようと企んでのことだったらしい。確かに経営者と言う点では画廊で何かあった際に相談できる人物ではあるし趣味も合いそうだから、自分達がロンドンへ行った後も親交を深めてくれ。という言葉を残し、柿谷は叔母よりも一足先にロンドンへ発った。

「クリスマス前には私もロンドンに行くの。年明けに一度こっちに戻って、荷造りをして、三月には日本とさようなら」
 画廊の打ち合わせと称し、なかなか予約の取れない白金台のフレンチレストランでランチを取っているとき、叔母は嬉しそうに言った。 
 叔母と柿谷との付き合いは長いようだが、私の推測では恋愛関係になったのはここ二、三年のことだと思う。なぜなら、叔母はその頃から輝き始めたからだ。その直前の叔母はよどんでいた。もともと明るくセンスも良く美しい叔母だが、今から三、四年前、叔母が四十歳になって少しした頃、恐らく低迷期だったのだろう。仕事も停滞し、いつも綺麗に整えていた身なりにも少しだけ乱れが見られ、身体も顔も浮腫み、表情が死んでいた。何があったのかは具体的には聞いていない。ただ、色々な事がよくない方向に向かい、それが重なった時期だったのだろう。誰にでもそういう時期はあると私は思っている。男でも女でも、未婚でも既婚でも、美女でも醜女でも、明るくても暗くても、どんな人にでも人生の浮き沈みはある。もし、そのじっとりと湿った、日の光の射さない暗く蒸した絶望的な谷底で蹲る叔母に手を差し伸べて、明るい日の射す草原へと引っ張り上げてくれたのが柿谷だったとしたら、叔母は彼から離れることは出来ないだろう。私の、前に抱いた不安がまた一瞬首をもたげた。
 叔母が幸せならばそれで良い。ただ、その幸せが長く続いて欲しいのだ。その幸せが長く続いているうちに、叔母に強くなって欲しいのだ。強くなって、もしその幸せが壊れても、崩れない叔母になって欲しいのだ。私はたびたび、叔母がガラス細工のように見えることがあった。美しいが今が完全なる状態であり、少しでも圧力がかかれば粉々に割れてしまう。危うい美しさを叔母はもっていた。叔母の美しさを守りたいが、私には壊れないように見守るしか出来ない。
「田辺さん、素敵な人だったでしょう」
 叔母の問いかけに私はあれから毎日修一と電話やメールで連絡を取っていることを伝えた。私も担当の出版が大詰めであり、彼も新店舗の立ち上げ計画があることからお互いの予定が合わず、今週末にやっと会う約束が出来た。あの日から一週間経つが、私達はもっと長く付き合った男女のようにお互いの理解を深めていた。距離が縮まるペースがとても速かった。お互いを求める強さも。それを聞いた叔母は女子高生のように飛び跳ねるがごとく喜んだ。
「舞ちゃんと田辺さん、相性がいいと思っていたのよ。雰囲気もお似合いだし。絶対にうまく行くって思っていたの」
 叔母はきっと自分もとても幸せなのだろう。女は自分が男に愛され満たされていると、周囲の女も自分と同じように男の愛情で満たされるべきだと思い込む生き物だ。愛されていない女を憐れだと不憫に思い余計な慈悲の心まで育ってしまう生き物だ。そういう時、女はまるでこの世の中には綺麗なものしか存在しないと思い込んでいる、苦労も穢れも知らない純真な少女になってしまう。自分が愛に満たされずに苦しんでいた時の記憶など、愛に裏切られて地べたを張ってもがいた時の記憶など、まるで忌み嫌うべきナメクジに塩をかけて溶かしてしまうかのように、跡形も無くとろけさせて消滅させてしまう。男の愛という偉大で、かつ不確かなものによって、世界で一番惨めで卑屈で不幸な乞食女から、世界で一番賞賛され大切にされるべき愛らしいお姫様に、一瞬にして変身できるのが女だ。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清