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雪の桜

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 今回も事前に母が父に事の次第を翻訳して伝えてあり、私が家に着くと、すでに私が今の会社を辞め叔母の画廊を引き継ぐことが「決定事項」となっていた。後は柿谷から聞いた話を伝言するだけで良い。叔母のロンドンでの暮らしと私の画廊経営について両親が心配することがないように、柿谷から聞いた話を多少誇張して私は説明した。
「舞子はちゃんと売り上げをあげられるのかしら」
 母は心配した。
「売り上げを上げられなくても、自分の稼ぎがなくなるだけで人様にご迷惑をおかけするわけではないのなら、まあ心配はしないがな。店番だと思えばいいだろう」
 父は言った。私はいざとなったら実家に戻る腹積もりではあったが、あえてそのことは言わなかった。反対はされないだろう。一人っ子の特権だ。両親は私の事よりも叔母の行く末を心配しているようであった。一人で一生生きていくつもりなのだろうか、と。柿谷との関係については怪しんでいない様だ。私からしてみると何故怪しまないのか不思議なくらいだ。あるいは気付いて気付かぬ振りをしているだけなのかもしれないが。

 その後、私は柿谷と叔母から色々な人を紹介された。画廊で個展を開いたことのある馴染みの画家、彫刻家、書道家、アクセサリーデザイナー、陶芸家、雑貨を扱っている業者、イベント専門の広告代理店の担当者、美術雑誌の編集者、他の画廊経営者、叔母の支援者、内装業者や修理業者など。その他画廊の経営に関わる関係者達。これだけ紹介してもらえれば、恐らく個展や雑貨類の販売で多少の売り上げは確保できるだろう。私は会社に退職願を出し、叔母が出発する一ヶ月前には有給休暇の消化に入るスケジュールにした。一ヶ月間、のんびり旅行をしたり叔母の手伝いをし始めたりするつもりだ。仕事の引き継ぎ、叔母の手伝いに追われ希望に満ちた忙しい日々を過ごすうちに、私はいつしか、悟を失った喪失感が消えていくのを感じていた。毎夜の暗闇も、もはや私を覆い尽くすことは無くなっていた。

 拾ってくれた神に心から感謝した。こういう事があると、私はまだ大丈夫、と思えるものだ。希望のある忙しい日々は、私の胸に潜んでいる重く暗い願望にとって、心地よい子守唄となる。この日々が続く限り暗い願望は目を覚まさない事を、私は知っていた。

 十二月に入った頃、柿谷が前に話した協力者に合わせると連絡をしてきた。何かあった時に画廊の経営について私が相談すべき相手だ。柿谷は銀座の中華料理店を予約していた。私の大好きなフカヒレ専門店だ。十年近く勤めているとは言え小さな出版社の、企画担当と言えば聞こえはいいが、実際は雑務全般を引き受けているに過ぎない私の給料ではそうそう高価な外食は出来ない。このフカヒレ専門店にはたまに来ることがあるが私が自分でオーダーできる料理は限られてしまう。特にフカヒレ姿煮は誰かにご馳走になる機会が無い限りはなかなか食べることが出来ないのだ。私は密かに久しぶりのフカヒレを楽しみにしていた。

 その時に一緒にフカヒレを食べた相手が、修一だった。その時は、お互いの運命をこんなにも変えてしまう相手だとは思っていなかった。

 修一との付き合いを報告した頃には、柿谷は既に私を妹扱いしていた。まるで、叔母が柿谷の妻で、私はその妹として扱われているようだった。
「舞子ちゃんはフカヒレの姿煮しか見ていなかった」
 とからかわれた。柿谷が修一に対して、わざわざお祝いとして乾燥フカヒレを送ってきたと聞いたときは、柿谷に意外と子供のようなところがあることを知った。修一と私はそのフカヒレを二人で有難く頂いた。

 出会いの日、柿谷に指定された銀座のフカヒレ専門店に私は少し遅れて到着した。思いがけず私の出席していた会議が長引いたためだった。出版社での私の最後の仕事は、イギリスの絵本の日本語版出版だった。その日の会議では翻訳内容の詰めに入っていたのだが、翻訳に問題が発生し、会議が長引いてしまったのだ。遅れて到着した私を、柿谷と叔母、見知らぬ男性、三人の和やかな笑顔が出迎えてくれた。その男性は思っていたよりずっと若かったので、私は少し戸惑った。柿谷と同年代の男性を想像していたのだ。黒のビジネススーツを着こなした色の白い、顔立ちの整ったその人の第一印象は、胡散臭いほどに良いものだった。先にビールで乾杯していた彼らは当然まだ酔っておらず、彼は礼儀正しい笑顔で私を迎えてくれた。
 この二ヶ月の間に柿谷と叔母から多くの知人、関係者を紹介された私は、それら全ての紹介をビジネス上のものと受け止めるのが至極当たり前のことだと認識していた。中には当然男性もいたがビジネス以外の感情を抱くことも、抱くと予想することも一切無かった。それが私にとってはごくごく自然な流れとなっていた。その日も、同じ流れとなることが私の中で大前提として、意識するまでも無く頭の中に植え付けられているはずだった。だから、私は修一の笑顔を見て、いえ、正確には、私の顔を見たときの修一の目を見て、この人と繋がるだろうという予感を感じたことに戸惑った。
 恋愛をしないよりも恋愛をする方がいともたやすいことだというのは私の持論であった。そんな私が何故、一人の男性と自分との間が、自分達には決して抗うことのできない深く強く、そして繊細で脆い縁で繋がれていることに気付く瞬間の、まるで大切な記憶を思い出したような、胸騒ぎがするような、嬉しいわくわくすることが起きたような、体の内から特別な官能的な液体が創られてそれが全身から溢れ出てきてしまいそうな、そのような感覚を、何故、忘れていたのだろうか。それほどまでに、悟との別離によって受けた傷は大きかったのかもしれない。その傷は叔母のお陰で自然治癒の方向に向かい、修一と出会った時には恐らくほぼ完治に近い状態になっていたのだろう。まるでこの出会いの為に癒されたかのように。
 修一も私と同じ予感を覚えたはずだった。私達はそのときお互いの目で繋がりを感じた。修一はあとからその時の気持ちを
「抗えない縁を感じて、最初から諦めをつけていた」と言った。
 
 その夜の食事は楽しいものだった。柿谷は修一と私の年代が近いためか、今まで他の知人を紹介してくれた時にはしなかった類の話をした。修一と私の趣味を聞いたり、今の生活の様子を聞いたり、お互いの恋愛感や異性の好みや結婚観にまで話が及んだ。というよりも、柿谷の私達に対する質問が及んだ。
「まるでお見合いみたいね」
 叔母が笑いながら言葉にした頃には、修一も私も既に、どうにも出来ないほどに惹かれ合っていたのだろう。その日の私は、柿谷と叔母の恋愛模様を観察する余裕を一切持っていなかったことに、後から気付いた。

「今度、アロワナを見に行きませんか」
 店を出た後、タクシーの中で修一は顔中を笑顔にしながら子供のように「元気良く」私に提案した。
 中華料理店での食事中、フカヒレの姿煮が出された時に、柿谷が鮫の話から
「そういえば修一は以前アロワナを飼っていたな」
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清