雪の桜
私は気分を変えるために音楽をかけることにした。CDを並べた棚からショスタコーヴィチのワルツを選んだ。ショスタコーヴィチ「ジャズ組曲の第二番ワルツNo.2」。私の大切な曲のひとつだ。ノスタルジックで荘厳なのにもかかわらず、チープな雰囲気も併せ持つ曲だと私は思う。私はワルツを聴きながら、音楽の世界へと意識を傾けていった。私はこの曲に自分の人生を見出だす。私のような存在でも幸せを夢見る。何かのきっかけでその幸せを掴んだかのように思える一瞬を迎えても、やがてそれは幻としてはかなく消え失せ、私のようなものが掴むことが出来るわけがないという現実を思い知る。幸せは、苦悩の無い人生は、私にとってはかない夢だからこそ、切実で美しい。決して手が届かない、崇高なものに焦がれ、諦め、絶望する、所詮人生とはそんなものなのではないだろうか。人間は、泥臭く地べたを這いつくばりながら、幻を追い求めるしかないのではないだろうか。でも、だからこそ、泥の中にいるからこそ、その手に入らない幻は美しく輝いて見え、生きるたびに少しずつ少しずつその美しい幻の正体を理解する日が近づいてくる気がする。その美しい幻が微かに見せてくれる幻影が、私の人生のほんのささやかな希望なのだ。
そんな風にこの曲は私の人生を飲み込んでしまう。だから、この曲を聴くと涙が流れる。けれどもそれは喜びの涙だ。
ショスタコーヴィチがこの「ジャズ組曲の第二番ワルツNo.2」を作曲したのは一九三八年、彼が三十二歳の頃だった。今の私と同年代だ。彼はどのような心境でこの曲を創ったのだろう。政権の抑圧の中での表現に苦悩している時期だったのだろうか。それともその苦悩から離れている時期だったのだろうか。この曲が約六十年後の未来に、彼には馴染みのない、恐らくその風景や人々や、その生活の様を想像するも難しいであろう異国に暮らす一人の女に、こうしてその音色が慈悲となって降り注ぎ、微かな、だが確かな希望となってその人生を救っているなどと、この曲を作ったときに彼は少しでも想像を巡らせたりしただろうか。もし彼が少しでも想像していたとしたら、私はこの世は素晴らしいと心から思えるのに。
私に音楽の楽しみ方を教えてくれたのは叔母だった。叔母はクラシックが好きで、よく私をコンサートに連れて行ってくれた。ヨーロッパのオペラほどでは無いにしても、二人で着飾ってコンサートホールへいくのが私は好きだった。私の唯一の贅沢な楽しみかもしれない。叔母はよく言っていた。
「好きな曲が増えると、大切な思い出が増えるみたいで嬉しいわ」
自分だけの大切なもの。誰にも冒されない自分だけの美しい世界が人間には必要なのだと、大切な音楽が増えると共に気づいていった。
ふと、音楽を聴いたのは久しぶりだと気付いた。この数ヶ月、音の織り成す世界へ精神を委ねる心の余裕が全く無かった。
三年付き合った悟と別れたのは、三ヶ月前のことだった。付き合い始めてすぐに結婚を意識したものの、四十になろうとしている自身の年齢を考えてすぐにでも結婚したいと言う彼の胸に飛び込むことが出来ず、三年間私が待たせながら付き合いを続けた形となった。痺れを切らした悟が他の女性の方を向いてしまっても、私には責める理由を見つけられなかった。
別れは突然やってくる、と、別れを切り出される側は思うものだが、別れの準備は別れを切り出す側によって、水面下でひっそりと、だが確実に、着々と進められているものだ。ある日、彼が新しい、今までと趣味の異なる服を買っていた事に気付いた時には、もう彼の中での別れの準備は七割がた終わっていたのだろう。
徐々に彼の態度が変わる。発言も変わる。私の知らない彼の時間が増える。長い間なりを潜めていた恐ろしい疑心暗鬼が私の中で目を覚ます。私はその鬼と戦い、理性を取り戻すことだけに全神経を注ぐ日々を送ることになる。
悟から別れを告げられたとき、悟とその女性はもう既に付き合い始め、彼らの間には深い絆が出来上がっていた。これは私の推測だが、結婚の話も出ていただろう。悟を好きだったが、結婚と言う彼の望みをかなえられなかったのは自分だ。追う事もすがる事も出来なかった。だが、悟がその相手には私の存在を話していなかったことを知った時、そのことは私に大きな衝撃を与えた。私よりも相手を気遣う悟を目の前にして、私達の関係が終わった事を認めるしかなかった。別れ話を始めた当初、相手の女性について多くは語らなかった悟は、話を進めるうちに、こう言った。
「彼女といると、子供に戻れるんだ」
だから、私と別れて彼女と付き合うことを選んだ、と。私といるときは子供に戻れなかったということだろう。男にとって、子供に戻れる相手と言うのが、それほど大事なものなのだろうか。子供に戻れない私と、なぜ結婚したいと切望していたのか。きっと彼にも答えなどわからないだろう。私にもわからない。私には、愛というものがわからない。多くの人は、自分の欲望を満たすことと人を愛することを取り違えている。私に、愛が何なのかわかる日は来るのだろうか。
別れの後は、大きな耐え難い喪失感を抱えて暮らすことになるものだが、私の喪失感は想像していた以上に重かった。三年間一番近い場所に居た人を失うことは、自分の一部を切り取られることに相違ない。私は、いつのまにか自分の大切な臓器の一部になっていたものを切り取られ、もがき苦しんだ。悟が暖かく、友情に限りなく近いゆるゆるした湯気のような愛情を注ぎ続けてくれた三年間、私はこの人の胸に飛び込めたらどんなに幸せか、何故私は飛び込めないのかと、重く暗い願望と戦いながら苦悩していた。悟と生きることは、暗い願望との決別だとわかっていた。けれども、出来なかった。悟を失った喪失感と、そのいつまでも付き纏う願望と決別できないのかという絶望で、私は真っ暗な海を漂っていた。毎夜毎夜、完全なる暗闇が私を飲み込み、その中を私は怯えながら漂うしかなかった。夜が来るのが怖かった。
ここ数日は、叔母のおかげでその暗闇を感じることは無くなっていた。このように、私は激しい絶望と緩やかな希望を交互に抱きながらいつまでも生きてゆくのだろう。
その週の週末、私は横浜にある実家に帰った。叔母の話をするためだ。両親には叔母から既に事の次第を話してあった。父に話さなければならないことがあるとき、叔母はいつも母に話をする。そして母は父の機嫌を見計らい、父の言語に翻訳して説明をする。そうすればたいていの事はうまく進む。時に叔母や私が重大な話を直接父にしようものなら、母が父の言語に翻訳してから伝えるケースに比較すると五倍はこじれ、父の機嫌を損ね、私達も傷つく結果になる。母の代わりは誰にも出来ないのだ。そんな両親の特別な関係は、長い年月と父と母の努力により築かれたものであり、どの夫婦にもこの種の特別な結びつきがあるのだろう。私はそれを尊いものとして憧れを募らせつつ、自分がいつか誰かとそんな時別な関係を築く事を望みながらも、イメージが出来ないままでいた。