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雪の桜

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「留守の間の画廊の扱いはお任せしますが、困ったことがあったら相談役を紹介して行きますので、彼に何でも相談してください。私のビジネスパートナーの一人ですが、彼とは近いうちに紹介の場を設けましょう」
 それは有り難いと素直に思った。雇われオーナーになるとは言え、ひとつの画廊の経営を任されることは、未経験の私には重荷でもある。相談役がいるとそれだけで安心感を持てる。私が礼を言うと、柿谷は続けた。
「それと、仲の良い叔母さんが遠くに言ってしまうのは心細いと思いますが、真樹さんの事は私に任せて下さい」
 私は心の中で、オーナーとしての評価に合格印を押し、最後の項目である「叔母が幸せになれるのか」は「限りなく合格に近い空欄」とした。後は祈るのみである。

 そんな私の心の中の採点など何の役にも立たないことはよくわかっている。何よりの評価対象は、彼の横で嬉しそうに、幸せそうに、喜びを隠せずに微笑んでいる叔母の顔なのだ。
 このような状態に身を置くことになった女は、どんな女性でも、たとえ世界中で一番大切な母親からの、あるいは親友からのアドバイスであっても、それが今の幸せに水を差すような苦言であれば、心の中で蓋付のスチール製のがっしりとしたゴミ箱に、その苦言を罪悪感のかけらも無く捨て去ってしまうものなのだ。その時に彼女たちは笑顔で感謝しながらその言葉を受け取る演技をすることを忘れない。そして、彼との関係に陰が差し込んできて初めて、そのスチール製のごみ箱の蓋を開け、捨ててしまったアドバイスを探し出し、そのお釈迦様の説法よりも有り難いアドバイスをくれた人物に泣いてすがる結果となる。女とは、非常に愚かな生き物だと、女の私は思う。だからこそ、可愛い生き物でもあるのだが。
 だから私は、自分の採点の事は叔母に伝えるつもりはない。そもそも私の人を見る目が確かなのであれば、私自身が今の時点で既に幸せな結婚をして、尊敬できる男に守られて何不自由なく、思い悩む心の隙も与えられない状態でぬくぬくと微笑んで生活しているだろう。

 マンションに戻った私は、ソファに横たわり大きなため息をついた。やっと音から介抱され、安心できる場所に帰ってきた安堵のため息だ。私は音が苦手だった。日常生活では幾種類もの、様々な音階の、あらゆるボリュームの雑音がひしめき合っている。私は時々、そういう音に精神を蝕まれてしまう感覚を覚えていた。例えば音楽や人の話し声など、ひとつの音は私を脅かさない。逆にそれらひとつひとつの音は私にとってそれぞれが意味を持つ大切なものだった。幾種類もの音が互いに遠慮することなく同時に主張し合う状況において、音のひとつひとつを認識できず、把握できず、理解できないことが、私には苦痛だった。ひとつひとつの様々な種類の音が混ざり合い雑音となり、それは耳の穴から私の中へ入り込み、脳を侵食していく。外の世界に身を置くことは、私にとっては音に脅かされ、怯えながら過ごすことだった。音の無い空間に、あるいは単独の静かな音だけの空間にひっそりと身を潜め、疲れた脳と精神を休めないことには、私はまともに生活を送れなかった。音に苛まれ続けたときには、あの重く暗い願望が突如として目を覚ました。
 
 私のため息には、もうひとつ理由があった。ここ数日間私の心を騒がせていた叔母の恋愛が幸せなものになりそうだという安堵のため息でもあった。
 女と言うものは、男もそうかもしれないが、人の身の上を心配しているときは自分の身の上のことを忘れている。心配すべきは人のことよりも自分のことであろうと言う厳しい現実を、人の幸せを祈るときには忘れられるものだ。強い人ほど優しいというが、弱い人ほど人の心配をするのかもしれない。自分の辛さを忘れるために。惨めな現実から目を逸らすために。そして人の心配をしているときは、面倒を見ているという事実に優越感を感じるのかもしれない。理由はなんにせよ、私はこうして大切な叔母の心配をしている時間、幸せを感じているのは紛れも無い事実である。
 人の行いは、見る角度によって偽善者の行いにもなり聖人君子のそれにもなり得る。であれば、何にせよ幸せを感じるのはすばらしいことだ。

 少し気になるのは、柿谷が電話をするために席を外したときの叔母の表情だった。柿谷から私への一連の説明が一段落し雑談を始めた頃、柿谷の携帯のマナーモードが唸るのに気付いた。ディスプレイ表示で電話をかけてきた相手を確認した時の柿谷の表情を見た叔母は、一瞬笑顔を翳らせた。柿谷は電話に出るかどうか迷った素振りをしたが、笑顔で手を差し出しどうぞ出てくださいというジェスチャーをした叔母を見て、五分ほど席を外した。柿谷が席を外している間の五分間、叔母は私に向かって料理の味について話をしたが叔母の口からでる言葉にはどれも気持ちが篭っておらず、私と目を合わせてもその表情から何か他に物案じをしている事は明らかだった。
 柿谷が戻ると叔母はすぐに笑顔に戻り何の電話だったのかを尋ねた。軽い問いかけではあったがその言葉に重さを感じたのは女の私だけでなく、柿谷も同様だったようだ。少し戸惑った柿谷はそれが彼のいつものごまかしの手口であるのか、新しい彼女からだと叔母をからかうような笑顔で言った。叔母はほんの少しだが少女のように唇を突き出して拗ねる素振りをした。四十代半ばの女性でもこれほどまでに少女のような愛らしい仕草が似合うのだろうかと、私は叔母に見惚れた。柿谷には見慣れた表情なのだろう。愛おしいものに触れずにいられないように、かつ、目の前にいる彼女の姪の目を気にして、柿谷は慈しむように叔母の肩をぽんぽんと叩いた。
 
 その時の、電話の相手を認識した柿谷の顔を見て一瞬翳った叔母の表情は、今までに何度も目にしたことがある、女性特有のものだった。それはこの世の全ての女の心に、その奥底にひっそりと、だが確実に根ざし、その恋愛のさなかに常に蠢いて増殖と衰退を繰り返す、疑心暗鬼の表情だった。
 この世の全ての女は、この何よりも恐ろしい鬼に立ち向かいうまく飼い慣らさなければならない宿命を背負っている。飼い慣らすことができないと、その鬼に食い殺されて身を破滅させることになる。女の一生はこの疑心暗鬼との戦いなのかもしれない。果たしてその運命的な戦いに勝利した女はこの世に存在するのだろうか。
 
 私は自分の中に微かに芽生えてしまった不安の根に、不吉な予感を覚えた。早く消さなければ。私がそんな不安を胸に抱いていると、現実になってしまうかもしれない。
 
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清