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雪の桜

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 大学を卒業してそろそろ十年。国内資本の小さな出版社に勤める私には別世界の話だった。叔母は私より一回り少し年上で離婚経験がある。子供はいない。いつも現実世界ではなく幻想の世界でふわふわと生きているように見える。好きなことを好きなようにして、それでも何とか、贅沢や大成功とはかけ離れているかもしれないが、十分に生活を楽しみながら生きている。両親は、私は両親よりも叔母に似ているという。叔母に似ていると言われるのは嬉しいけれども、私は叔母のように自由に生きていない。この年になるまで結婚もせず、子供も生まず、仕事も中途半端にこなし、出世もせず、目標も見つからず、未だに何一つ成し遂げていないという焦りが常にねっとりと私の身体に付きまとっている。叔母のように自由に生きるには、自分の才能を信じる思い込みの強さと、根拠の無い自信が必要なのだ。それこそが才能なのかもしれない。
「だから、このお店を舞ちゃんにお願いしたいのよ」
 叔母はお茶を用意しながら話を続けた。
「私はもう帰ってくるつもりは無いから、基本的には好きなようにしてくれちゃっていいの。どんな作品を扱ってもいいし、何を売ってもいいし。ただ、ロンドンでアーティストを探す計画もあるから、東京で個展をやる時にはもちろんここを使うけど。その時は対応もお願いしたいの。でも、そんなの年に一回あるか無いかだと思うわ」 
 給料は自給自足だという。このビルはロンドンに画廊を出す知人が所有するものであり、彼は叔母の作品の支援者でもあるのでもともと家賃は免除してもらっている。今後も家賃を払う必要は無いが、個展の為に画廊として残しておきたい。そのため、誰か任せる人を探している。という話だった。自分で売り上げた分がそのまま自分の手元に入る。そんないい加減な条件で引き受けてくれるのは、せいぜい自分の作品の展示場所を欲しがる売れない芸術家だけで、世間知らずの彼らに店を任せるなどという無謀なことはさすがに出来ない。そこで、身内であり、普通の社会人経験のある私に任せたいということだった。
 今の仕事に将来性も目標も希望も持つことが出来ず、一方、この先も生きていく為に道を模索しなければならないと感じていた私は、言い変えれば今の生活に何の希望も魅力も感じられずに変化を求めていた私は、叔母の申し出を受けることを即決した。
 叔母がロンドンへ移住するのは三月だそうだ。今の会社の引継ぎと有給休暇の消化、画廊での新ビジネスの準備には、十分な期間だった。叔母の面目をつぶさないため、建前上は両親に相談してから決める段取りにしようと二人で合意した。そういう時、叔母はいつも、同志としての確認を求めるかのように私に向かっていたずらっ子の如くウインクをした。私は、叔母との絆が深まるようで、そういう時には嬉しさを感じていた。叔母はロンドンに一緒に行く知人を紹介するので、その後に最終決定をして欲しいと言った。
「ここのオーナーでもあるから、もし会ってみて舞ちゃんがどうしても嫌だったら受けなくてもいいのよ。やっぱり相性ってあるじゃない?でも、舞ちゃんなら気に入ってくれると思うけど」
 そう言う叔母の表情には、ほんの少しだけ色香が見えた気がした。私達はそのオーナーと翌日のディナーを一緒にとる事にした。叔母は口にしなかったが、そのオーナーが叔母の恋人でありパトロンであり、叔母が彼とロンドンで新たな生活を始めることは明らかであった。

 翌日、仕事を終えた私は叔母に指定された銀座のレストランへ向かった。老舗として有名な和食店だった。柿谷と名乗ったその男性は、私の父より少しだけ若い年代に見えた。芸術関連の仕事に従事する人間らしく、高級感を感じさせる雰囲気と品の良さを兼ね備えた、紳士的な男性だった。美しい叔母の恋人としては申し分ないと私は心の中で第一印象の欄に合格印を押した。
 懐石コースを注文し、柿谷と叔母は日本酒を飲みながら、私にありとあらゆることを説明してくれた。柿谷の素性、経歴、現在の仕事、今後の考え、ロンドンに移住する理由、叔母との出会い、叔母との仕事での関わり、叔母の作品について、日本の美術界の現状、ヨーロッパの美術界について、日本の若手芸術家の海外進出について、今の画廊を残して活用したい理由、自由に使っていいという説明、好きに使うための提案の諸々。
 柿谷と叔母の息はぴったりと合っていて、私への説明も二人の自然な会話から派生するように滑らかに進められていった。私が聞き役に徹しないように時折私の意見も聞き、合間には料理とお酒を楽しむ会話も交え、誰にとっても居心地の良い空間を作る術に長けている人だと思った。私は心の中で彼の人物面評価に合格印を押した。
 彼らのロンドン移住計画は、美術の世界について素人の私には非常に現実的で、志高く、限りなく成功に向かう可能性が高いと思われるものだった。恐らく、私の両親も賛同せざるを得ないだろう。反対する濁点が見当たらないのだ。しいて言えば、叔母は英語がそれほど堪能では無かった気がする、と言う点だけだ。
「今英会話学校に通って必死に勉強しているのよ。この年になって勉強するのは辛いわ。若い頃に比べると飲み込みが遅いのよね。舞ちゃんも悪いこと言わないから今のうちから英語くらい話せるようになっておいた方がいいわよ。これからはどんな仕事でも英語は必要よ」
 私が大学生になった頃には既に世の常識だったことを、恐らくつい最近知っただろう叔母はさも最新のビジネス常識を説明するかのごとく私に向かって話した。
「舞子ちゃんは英文科を出ているし、今の仕事でも海外との取引で英語を使うこともあるだろう。舞子ちゃんの勤める出版社はヨーロッパの絵本も扱っているはずだ。君よりも舞子ちゃんの方が英語は達者だと思うよ」 
 柿谷は私へのフォローと思われる言葉を、叔母を見つめ微笑みながら口にした。その表情と雰囲気で、私へのフォローの意味よりも世間知らずで少女のような叔母を慈しむ意味合いのほうが明らかに濃くなっていた。この二人の世界はこの世の中にすでに出来上がっていて、他者の介入を許さない。私は心の中で、柿谷の、叔母への愛情の強さに関しても合格印を押した。
 その夜の叔母は可愛い女だった。もともと叔母は年齢よりもずっと若く見え、自由なお嬢様がそのまま大人になったような可愛い女性だ。いつまでも少女の雰囲気を持っているためか、私が初恋の事を友人よりも先に打ち明けたのはその当時学生だった叔母だったし、それ以来ずっと恋愛でも私の良き相談相手だった。ただ、叔母は三十になった頃から、私に自分の恋愛話をあまりしなくなった。私は、それはきっと言えない理由があるのだろうと思っていた。恐らく恋愛の相手に家庭があるのだろうと。柿谷の左手には指輪は無かった。息子がいるという話は出たが、当に独立して海外にいるらしい。今現在、柿谷が結婚しているかどうかは聞けなかった。聞かなくても、叔母がそれで良いなら私もかまわない。叔母が子供を産んで普通の家庭を持つという普通の幸せを望んでいないならば。
 食事も一通り終わり甘菓子が出された。叔母が化粧室に行っている間、柿谷は私にこう言った。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清