雪の桜
修一の笑顔が脳裏に浮かんだ。出会ったときの人懐っこい笑顔、水族館へ誘ってくれた子供のような無邪気な笑顔、初めて抱き合った夜の修一の真剣な目、私を抱きしめる力強い修一の腕、一番好きだった暖かい修一の胸の中、子供のような修一の寝顔、仕事をしている時の真剣な顔、柿谷に見せる素直な少年の顔、やっと会えたと抱き合った時の透き通る目、抱きついて離れない子供のような修一、包まれていると幸せだった修一の香り、私を守ってくれた修一、いつもいつも、真剣に私に向き合ってくれた、私の言葉に必死に耳を傾けてくれた、真剣に私を愛してくれた。修一のすがるような瞳。失いたくない。やっと会えたのに、失ってはいけない。まだ、やり直せる。やり直して、二人で誰よりも幸せになりたい。
マンションに着くと走ってエレベーターホールに向かった。エレベーターが一階に着き扉を開けるまでが、とても長い時間に感じた。修一の部屋がある階で降りるとすぐに修一の部屋へ向かい、インターフォンを何度も押しながら鍵を開けて中に入った。
キース・ジャレットのピアノが流れていた。修一が一番好きな“I Loves You, Porgy”だ。
修一、と私は呼んだ。返事は無い。
リビングへ足を踏み入れた。一緒に選んだローテーブルが置かれているベージュのカーペットが、赤黒く染まっていた。私が気に入っていたガラスのランプから放たれるきらきらした光が、赤黒いカーペットを照らしていた。修一はソファに横たわっていた。私の好きな、子供のような、あどけない修一の寝顔だった。私は修一に近づいた。私の目からは涙が止まらずに溢れ、視界が曇っていた。
「修一」
私はゆっくり修一の名前を呼び、修一の頬に手をあてた。冷たかった。いつもの修一の暖かさが感じられなかった。修一の首から下が、赤黒く染まっていた。私がクリスマスにプレゼントした白いセーターが、赤黒く染まっていた。私は修一の名前を呼びながら、修一の肩を揺さぶった。修一は応えてくれなかった。私は何度も何度も修一の名前を呼び、肩を揺さぶった。頬をなでた。抱きついてキスをした。もう一度、修一、笑顔を見せて。お願いだから、目を覚まして、出会った頃に戻って、やり直そう。もう一度笑顔を見せて。片割れなのに、先に行かないで。やっと会えたのに、一人にしないで。笑顔を見せて。しゅういち、置いていかないで。ごめんなさいしゅういち。置いていかないで。一人にしないで。ゆっくり包み込むから、これからはそうできるから。戻ってきて。やっと会えたのに、一人にしないで。
私の記憶はそこで途切れている。
目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入った。私は病院のベッドの上に横になっていた。ベッドの横に、母と叔母の顔があった。母も叔母も泣いていた。
部屋着のままで裸足の私が修一のマンションのエレベーターホールを駆け抜けた時、管理人がただ事ではない事を察知し、後から修一の部屋へ見回りに来たそうだ。私は修一の部屋へしょっちゅう出入りをしていたので、管理人とは顔見知りだった。玄関は空いたままで、私が倒れている修一に抱きつきながら泣き叫んでいたそうだ。私が気を失った後、管理人は救急車を呼び、修一の緊急連絡先であるロンドンの柿谷へ連絡を入れた。柿谷と叔母はすぐに帰国した。私は、二日間目を覚まさなかったそうだ。足の裏にはガラスの破片が深く刺さり、五針縫う怪我をしていた。
修一は、睡眠薬を大量に飲んだ後、自分で自分の首の頚動脈を、ナイフで切っていた。私が部屋に着いたときには、既に死亡していたと、聞いた。
修一のPCには、私と柿谷への侘びと、遺書が書かれていたそうだ。過去の経験に苦しめられ、克服する事が出来なかったこと、これ以上続けていると柿谷にも私にも迷惑をかける結果になる事、だから死ぬ事を決意したと記されていた。
私に対しては、幸せに出来なくて申し訳ないということ、真剣に私を幸せにしたいと努力したが、出来なかったことが、なにより悔しいと書かれていたそうだ。幸せになって欲しい、とも。
修一はこの数ヶ月、柿谷の紹介したカウンセラーのクリニックに通って安定剤を服用していた。それは私も柿谷も知っていた。ところがこの一ヶ月はカウンセリングに来なかったらしい。修一の部屋に残されていた抗うつ剤と睡眠薬は他の病院で処方されたもので、その病院では仕事のトラブルで不眠症になったと診察を受けていたそうだ。
私は、修一を永遠に失った。修一の笑顔も永遠に失った。もう何を思っても何を後悔しても、決して戻らない。
第三章 記憶
私はあの日からずっと、頭の中に靄がかかっていた。修一の死を認められないのだろうか。自分の身の上に起きた事を、理解出来ていないのだろうか。あれが、現実だったのか、夢だったのか、記憶が定かではない。いずれにしても、感情を持ちたくない。一切の感情を、自我を、意識を持ちたくない。このまま生きるなら、海月の様に、漂うだけで良い、そんな存在になりたい。もう一度修一に会いたい。修一の笑顔が見たい。
違う。何か違和感があった。
あの後、柿本も叔母も、私をしきりに励まそうとしていた。決して自分のせいだと思うな、と優しく話してくれた。叔母は両親と相談し、暫く日本で私と一緒に暮らす事に決めた。それは叔母にとっても、柿谷との関係を清算するのに良いタイミングだったと後から叔母は言っていた。柿谷の妻は精神を病んだ。そして柿谷は、離婚を諦めたのだ。
柿谷は、決して自分のせいだと思わないで欲しい、と私に言った。相手が誰であっても、修一一人であっても、結果は同じだった、と。過去を知りながら二人を引き合わせた自分の責任だと。
私のせいではないのだろうか。私と修一の出会いは確かにあった。確かに、出会ったときに繋がりを感じ、抗えない縁を感じ、一年間を二人で一緒に過ごした。あれは、なんだったのだろうか。私はこの先、修一の事を忘れ、修一以外の人と恋愛をするのだろうか。単に弱い人だった、と、それだけなのだろうか。
違う。また違和感を感じた。
「何故おまえは彼の後を追わなかった?」
あの日からずっと、どこからか声がしていた。
「片割れが死んでしまったのに、何故おまえは一人で生きている?」
冷たい声が頭の後ろから響く。何故私は、修一の後を追っていないのだろう、何故私はひとりで生きているのだろう。片割れが死んでしまったのに。生きる意味などもう無いはずなのに。何故。後悔しているはずなのに。
退院し、体力、精神とも回復してきた私は、自分の部屋の片づけをしていた。もう数か月もすれば、仕事に復帰することが出来るだろう。暫くは叔母の手伝いをして、落ち着いたら別の仕事を探そう。そして、徐々に普通の生活に戻り、いつかまた恋をする日も来るのかもしれない。
そんな事を考えながら、なんとなく部屋に存在する物を整理しようと、目につくものを手に取っていた。
私の記憶が目を覚ましたのは、その時だった。私の記憶を呼び起こしたのは、私を包んだかすかな香りだった。甘く青々した、幸せの香り。