雪の桜
「井沼さんが舞子さんに御礼をしたいらしいから改めて食事をしましょう。って書いてある」
私は慌てる必要は無いのに、修一のその気迫に圧倒され、慌てるように説明した。
「お礼って言うのは多分、さっき話したように私の一言で井沼さんは林さんに告白する勇気がもてたらしいから…」
「どうしてなんだ」
話の途中で修一は、あの地底から響くような声で、震える声で、ゆっくり話した。
「この数ヶ月、僕は舞子との関係を何とか修復しようと必死だった。仕事と舞子のこと以外には何も出来なかった。それだけ真剣だった」
修一は声を荒げだした。私は驚いて動けなかった。
「それなのに舞子は、外の世界で今まで通り楽しんでいたのか」
私は、違う、そうじゃない、と小声で言ったが、すぐに修一の声にかき消された。
「僕は舞子の事しか考えられなかった。眠れなかった事も知っているだろう。君も一緒に真剣に向き合ってくれていると思っていたのに、だからこそ舞子の気持ちにも応えようと必死になっていたのに、それなのに君は外では楽しくやっていたのか。君にとって僕との事は、その程度のことなのか」
修一は私の肩を持って激しく揺さぶりながら、そのような言葉を大声で怒鳴り続けた。他にはどんな事を言っていたか、覚えていない。私は生まれて初めて経験する恐怖に、目をつぶって耐えようとした。きっとこのまま殴られるのだろうと予感した。とても長い時間が過ぎたように思えた。気付くと、修一の手の動きが止まっていた。
私は閉じていた目を開いた。目の前に修一の目があった。血走り潤んだ修一の目が私の目をじっと見ている。恐怖は大きくなった。何も言えなった。何も考えられなかった。何が起きたのかもわからなかった。誤解だと弁明することも、何故こんなに怒るのかと修一を問いただす事も出来なかった。修一は脱力したように私を抱きしめて泣きながら謝り続けた。
「もう元に戻れない。僕には無理なんだ。ごめん舞子」
と修一は繰り返した。
私は少し落ち着くと、修一の腕から逃げた。ゆっくり立ち上がり、ドアに向かって歩いた。全身に力が入らず、足は震えていた。床に、クリスマスに修一から貰ったペンダントが落ちた。肩を激しく揺さぶられた拍子に鎖が切れたのだろう。私はペンダントを拾わずに、そのままゆっくりと部屋を出た。修一は追ってこなかった。
私はあの日から、修一に連絡が出来なかった。連絡をして、修一がどのような反応をするのか、それを知るのが怖かった。私はもう、疲れ果てていた。毎日起きて、画廊へ行き、仕事をこなすだけで精一杯だった。何も考えられなかった。私達はこのまま終息を迎えるのだろうか。
苦しかった。お互いに離れる事が出来ず、別れと修復を繰り返すたびに、お互いの狂気が育っていった。私は修一の狂気が怖かった。修一の狂気を受け入れようとする自分の狂気も怖かった。修一と一緒に奈落の底へ落ちて行く過程が、たまらなく怖かった。
そんな私の思いが修一に伝わっていないわけが無かった。私達は、この一年をかけて、ひとつの存在になっていたのだ。二人でひとつの魂になっていたのだ。お互いのどんな些細な変化にも、自分の事と同じように気付く存在になっていたのだ。修一は、私が修一を恐れている事に気付いていたはずだった。それで、修一はもう無理だと諦めを感じていたのかもしれない。
鈍感な方が圧倒的に幸せなのだ。人の気持ちに敏感になればなるほど、それが大切な人であればあるほど、身を引き裂かれるほどの辛さが増してくる。
あの日から一週間が経つ。修一からは何の連絡も無い、私もしていない。きっと修一は眠れぬ夜を過ごしているだろう。安定剤の力に頼っているかもしれない。私達はまた戻るのだろうか、このまま終わるのだろうか。このまま終った方が、お互いの為だろう。私は、自分が修一との関係を終らせたいと望んでいると、徐々に気付いてきた。自分の中に、もう戻りたいと思えない自分がいることを、戻ることに恐怖と絶望を感じている自分がいることを、私は認識し始めていた。
私は画廊に飾ってある、私が最後に担当した絵本をおもむろに開いた。修一は、自分は主人公の少年と同じだったと言った。という事は、私は彼の女神にはなれなかったということになる。最後の女神の言葉を読み返した時、気付いた。
「大切なものは、やさしく、そっと包み込むのよ
大切なものは、力を入れ過ぎると壊れてしまうから」
私と修一の事だった。少年と同じだったのは修一だけではなくて、私も少年と同じだった。修一は大切にしようと力を込めすぎて、私は切実に祈りすぎていた。やっと手に入れた幸福を、安堵を、手放したくなくて、事実を曲げて受け止め、私たちが進む道を曲げてしまったのは私だった。私と修一は、同じように恐れ続けていたのだ。恐れが付きまとう関係は、やはり叶うはずが無かったのかもしれない。
これが、私達の業なのだ。暗く重い何かを背負ってしまった人間の業なのだ。その業は、時を変え形を変え、私たちの前に現れる。業は背負っていくしかないのだ。逃れる事が出来ないのだ。
私は、この一連の事象を初めて俯瞰的に見る事が出来た気がした。これは私達には抗えない、それぞれの運命だったのだ。そして涙がとめどなく流れた。
十日が過ぎたある夜、修一から電話があった。修一が苦しんでいる時の、あの地底から響くような声だった。私は背中に寒気を感じると同時に、懐かしさを感じた。
「舞子」
修一は言葉を搾り出した。
修一の声の後ろで、キース・ジャレットのピアノが聴こえていた。
「元気だったか」
修一はゆっくりと、沈黙を合間に入れながら、丁寧に一言ずつ話した。
すまなかった、と。
もう、苦しませないよ。と修一は言った。
舞子を、幸せに、したかった。幸せに、出来なくて、すまなかった。本当に、こころから、舞子を、愛している。と修一は一言ずつ、言った。
薬を、飲んだ。雪の桜、綺麗だったね。いつも、楽しかった。ありがとう。
電話は切れた。
私は目が熱くなるのを感じた。頬が濡れる感覚を感じた。鼓動が早く、大きくなった。胃が収縮する。手のひらに汗が滲んでくる。呼吸が激しくなる。私は何故か口を押さえた。修一。
修一を、失いたくない。
私は財布だけ手にして、すぐにマンションを飛び出し大通りまで走った。冬の夜風が冷たかった。裸足の足に何かが刺さった。痛みを無視して大通りでタクシーを拾った。修一のマンションまでは急いでも三十分かかる。