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雪の桜

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 修一の香りだ。私が愛した、修一の香りだ。私の部屋の、修一の荷物に残っていたかすかな香り。

「修一を殺したのは、私」
 
 時として、香りで記憶が目を覚ます。
 私の脳が、生きるためにねじ曲げた記憶を、ほんとうの記憶に戻そうとしていた。香りに刺激されて。

「だから私は今、一人で生きている」

 あの日、修一からの電話が切れた後、私は、すぐに修一のマンションへ向かわなかった。それが真実だった。

 私の修一に対する恐怖は、憎しみに形を変えようとしていた。別れられないのなら、私はいっそ、修一が死んでくれれば良いのに、と考えがよぎる事もあった。そんな自分が恐ろしかった。

 あの電話で、修一が死のうとしている事を知った私は、心の中でほっとしたのだ。これで開放される、と。

 だから、すぐに行かなかった。行けなかった。行かない事が、修一を見殺しにする事を意味すると、理解していた。もう、私の愛情は、修一の狂気によって形を変えていたのだ。

 私は修一を見殺しにする決意をした。

 一時間後、私は修一のマンションへ向かった。修一の死を確認する為だったのか、まだ間に合うと思ったからか、どちらなのか記憶は曖昧だ。ただ、行かなければならないと思っていた。

部屋に入ると、修一は生きていた。別人のような顔をして、ソファにうなだれて座っていた。

 キース・ジャレットのピアノが流れていた。修一が一番好きな“I Loves You, Porgy”だ。
 
 一緒に選んだローテーブルが置かれているベージュのカーペットを、私が気に入っていたガラスのランプから放たれるきらきらした光が照らしていた。

 修一は私を見なかった。ずっと黙っていた。私は立ったまま修一を見下ろしていた。私は、修一に殺される事を予感し、覚悟した。

 どのくらい時間が経ったのだろう。感覚が曖昧だった。

 修一はゆっくりと立ち上がった。垂れた頭を前に向け、私の目に視線を合わせた修一の目は、私の愛した修一のものではなかった。私は自分の頬を流れる涙の暖かさを感じた。

 何故、こんなことになったのだろう。愛する人の死を望むなんて、何故、こんなことになったのだろう。やっと会えた、ひとつになれる相手だったはずなのに。あんなにも、愛し合い求め合ったのに。あれほどまでに慈しみ合ったのに。初めて、産まれてきた喜び、意味を感じたのに。

 修一は私に近寄り、左手で優しく私の頬の涙を拭い去った。

「僕を、見捨てたんだね、舞子」
 
修一はゆっくりと、いつもの優しい修一の声で言った。

 私は言葉を発する事は出来なかった。きっと、修一が右手に持つナイフで私は刺されるのだろう。

 修一はゆっくりと、私を抱きしめた。強く、初めて抱き合った時のように優しく、抱きしめた。

 修一も、涙を流していた。修一は長い時間、ずっと私を抱きしめていた。私は修一の暖かさと、大好きな修一の香りを感じながら、死への覚悟を強めた。今までの幸せだった思い出が、脳裏を巡った。

 修一が私から離れた。一瞬だけ、私の大好きな、優しい笑顔を見せた。すぐに表情を無くした修一は、右手に持つナイフを、自分の首にゆっくりと当てた。

 修一の目は、じっと私の目を見ていた。
 すがるような、子供のような目で、私を見つめていた。

 鼓動が早まった。全身の筋肉が収縮し、血液が体中をものすごいスピードで巡り始めた。

 私はその時どんな目をしていただろう。

 止めるなら、これが最後だ、と私の心の中で誰かが叫んだ。修一の笑顔が大事なら、もう一度やり直したいのなら、これが最後だ。と。

 同時に、これで開放される。とも叫ぶ誰かがいた。やっと、開放される。

 私が自分の心の中に響くふたつの声に耳をすませている間に、修一のすがるような澄んだ目が瞬時に翳り、その目に絶望の色が見えた。同時に修一の右手が素早く動いた。

 私の耳はその瞬間、全ての音を受け入れることを拒絶した。
 
 ほんの一瞬だった。その一瞬が過ぎると、私の耳には、自分の鼓動と、血液が循環する音だけが聞こえるような幻聴が起きた。その幻聴が小さくなると共に、キース・ジャレットの“I Loves You, Porgy”がゆっくりと聞こえてきた。世の中で一番悲しい旋律に聞こえた。私は、この曲を聴くたびに、修一とのことを思い出すのだろう。修一の、このすがるような悲しい目を思い出すのだろう。一人では生きて行けない子犬を見捨てるような重い罪悪感で身を引き裂かれるのだろう。と、思った。

 この曲を一緒に聴いた、目黒川の雪の桜のきらめきが目の前に現れた。ずっと覚えていようと約束したその桜のきらめきのなかで、私は、私の目の前で、誰よりも大切だった修一が、倒れていくのを、見つめた。

 私の目をじっと、見つめながら。すがるような悲しい色の目で、私を見つめながら。

 自分で自分の首の、頚動脈を、ナイフで切り裂いて。

 目の前の光景はスローモーションでゆっくりとゆっくりと過ぎていき、キース・ジャレットの甘く哀しい、丁寧なピアノの音だけが、頭に、大きく、響いていた。

 危機が訪れたときには、視覚よりも聴覚の方が鋭敏になるのだ、と知った。

 目の前に、赤い色が見えた。
 修一が、床にひざまづき、倒れこんだ。
 修一の悲しい目が、私の目からゆっくり離れた。
 修一の唇が微かに動いた。
 修一の身体が、痙攣した。
 ベージュのカーペットが、修一を中心に赤く、鮮やかに赤く、染まっていった。
 キース・ジャレットのピアノが、切なく部屋に響いている。
 修一の背中が、微かな動きを、完全に止めた。

 そのとき、私はひとつのことだけを思った。

―やっと、終わった―

 この世で最も愛した男の死を、生から死へと移りゆく様を、私は穏やかな気持ちで、安堵の気持ちで、見つめていた。

―やっと、終わったね 舞子―

 修一の声が、聴こえた気がした。けれどもそれは、スピーカーから流れるピアノの音だったのかもしれない。

 あの瞬間、きっと修一も、あの目黒川の雪の桜を見ていたと私は確信している。あの奇跡を感じた瞬間が、私達の人生で最も幸せな一瞬だったから。死にゆく修一が私の目を見つめた時、私達は出会った瞬間と同じだったのだ。何一つ変わってなかったのだ。

 私は、修一を見殺しにした。私が修一を殺したのだ。これが、現実だった。

 私が修一を愛し、受け入れ、拒絶し、絶望させ、死に追いやった。
修一は、私に裏切られ絶望して死んだのだ。私が、苦悩の連続だった彼の人生の、最後の希望だったのだ。

あの目黒川沿いのレストランで、修一は言った。
「もし僕が死ぬ事があるとしたら、それは舞子を失った時か、自分に絶望した時だ」
 
 修一は、あの時から予感していたのだろう。私の裏切りを。予感しながら最後の希望を託し、私を愛したのだろう。そして、自分に絶望して死んだのだ。
 あるいは、修一の死は私の為でもあったのかもしれない。修一の死を望んだ私の為。春琴と自分の為に、自分の目を潰した佐助のように。

 私は修一を裏切った。修一を見捨てた。泣きも叫びもしなかった。
 
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清