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雪の桜

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「でもね、舞子さんの言っていた『子供になれる相手』っていうのがひっかかって、私がその相手だって気付いたんだって。そんな相手を男は逃さないって、自分が舞子さんに言ったんだから、逃しちゃいけないんだって思ったんですって。舞子さんのお陰で勇気を持てたって」
 確かに、私といる時の井沼と、林さんといる時の井沼は違っていた。林さんの前では少年のような目をしていた。だからこそ、その井沼の目を見て、私はかつて悟が言っていた男心がどういうものなのか、井沼に聞いてみたくなったのだ。
「それで、彼は精神誠意自分の気持ちを話してくれて、待ってくれたの。私がその気になるまで。私も徐々に恐怖心がなくなってきた。過去の恋愛と新しい恋愛は全く別物なんだって、彼が教えてくれたの」
 林さんはケーキの三切れ目にフォークを入れた。この人は良く飲み、良く食べる。それなのに太らずほっそりしているのは羨ましい。
「だから、私思うんだけど、過去は過去。なのよ。過去は忘れちゃって良いのよ。まっさらな気持ちになればいいのよ。恋はひとつひとつ、必ず違うものなのよ」
 林さんは、私の苦悩の理由に気付いていたのだろうか。修一の過去については一切話していない。彼女が単に、自分と井沼との話をしたに過ぎないのであれば、私はまだ神に味方されている。私は自分の感覚が何かを乗り越え、上昇していくのを感じた。林さんの一言で、私も修一も、修一の過去に捕らわれすぎているのだ、と思えた。沼地から一歩外に出れた気がした。
 
 その日は朝から冬晴れだった。刃物のように鋭く研ぎ澄まされた空気が澄んだ景色を創造し、駅からは、富士山が綺麗にその姿を日の光にさらしていた。電車に乗り暫くの時間を地下で過ごし、到着した地下鉄の駅を出ると、いつも通る画廊へ向かう歩道が綺麗になっている事に気付いた。
 画廊は最寄駅を出てから徒歩七分ほど、大通り沿いの歩道を歩いた場所にあった。大通り沿いには雑貨店や家具店などの店舗が多く、視覚を楽しませることにより距離を感じない道だったが、なぜか歩道が綺麗に舗装されておらず、ピンヒールの踵の減りが早いこと、走ると段差で転びそうになることを叔母はいつも愚痴っていた。雨の日は今時都内では見つけようとしてもなかなかお目にかかれない大きな水溜りがいくつも出来て、常に足元に気を配っていないと靴の中まで水溜りの濁った水による水害を免れなくなってしまう。私も実際に通ってみて確かにその不便さを実感していた。
 今日、その歩道が綺麗な石畳になっていることに気付いた。今までの不快感を微塵も感じず、通り慣れたその道が、全く違う道に見えた。段差でよろめくことも無く、ピンヒールの踵もそうそう減りそうになく、画廊に着くまでの七分間が、快適な短時間の散歩になった。
 こうやって凸凹を均せば良いんだ。いつの間にか出来てしまった凸凹を均すだけでこんなにも快適なものになる。
 私は、修一とやり直したいと思った。まだ私達は修復できる。初めてデートした水族館に行こう。そうすれば、何かが変わる。

「今度の休み、水族館に行こう。初めてのデートで行った水族館」
 修一は少し驚いた顔をしていたが
「いいね。久しぶりだね」
 と、すぐに合意した。疲れ果てた修一の表情にほんのり明るい色が差した気がした。

 次の土曜日、私達は微かな希望を胸に抱き水族館へ向かった。きっと私達の胸のうちは同じだったに違いない。一瞬一瞬が嬉しくて楽しかった一年前に戻ろうとしていたのだ。今度こそはきっと、修復できる。壊れかけた私達の「形」を修復できる。そしてまたひとつになれる。そう祈っていた。

 水族館は一年前と変わっていなかった。
「このアロワナ、一年前のアロワナかな」
「うん。きっとそうだよ。こんな綺麗な銀色だった」
 私達は目を合わせて、同じことを思った。
「また、あてっこしようか」と。
 結果、私はまた船酔いをする事になった。
 
 その日、私達はとてもよく笑った。久しぶりにお腹が痛くなるほど、馬鹿みたいに二人で笑った。何も無いところから生まれた笑いは、私達の自信になりそうな気がした。こんな風に、ふと気付いたら自然になれる。気負わない二人になれる。私達は大丈夫だと思えた。

 その日は、初めてのデートと同じように中華街で食事をし、ホテルのバーに行った。
 私達は出会った頃の思い出を話した。初めて会ったときは楽し過ぎてフカヒレの味は正直覚えていないとか、第一印象はこうだったとか、目黒川の雪は綺麗だったとか、思いつくだけの幸せな思い出を話し尽くした。柿谷と叔母の話にもなり、画廊の話にもなった。
 そこで、修一は、これまでの事を詫びてきた。束縛して私を苦しめたことを、私に詫びてきた。
「あの絵本の少年と同じだよ。どうやって大切にしたらいいかわからなかった。僕は舞子を苦しめたからもっと酷い」
 と修一は呟いた。
「もう苦しめない」
 と、力強く言ってくれた。

 私達は修一のマンションへ帰った。修一の部屋へ着くとすぐに、私達は待ちきれなかったようにお互いを求め合った。求め合い長い長いキスをした。私は希望に満ち溢れ、幸せな気持ちに包まれた。私達は、久しぶりにキース・ジャレットの”I Loves You, Porgy”を聴いた。
「一緒にゆっくり音楽を聴くの、久しぶりだね」
 私が修一の腕に抱かれながら言うと、修一はこう言った。
「これから、出会った頃に話したことを二人で全部やろう」
 全部って?と私が聞くと修一は、かつて私達が尽きない話を夜通ししていた頃、二人で一緒にやりたいこと、行きたいところ、食べたいものなど、希望に満ちて話し合った事を順番にあげていった。
「まずは、月島でもんじゃ焼き。次に最初に出会った店でフカヒレ丼。築地で海鮮丼。とろとろのオムライス。ロシア料理屋のボルシチ…」
「食べ物ばっかりじゃない」
「ほかにもあるよ。蛍を見にいく。目黒川の桜を見る。奈良に仏像を見に行く。オホーツクの流氷を見に行く。アラスカにオーロラを見に行く。ガラパゴスでトカゲを見る。パラオのジェリーフィッシュレイクに行く。サバンナで野生の動物を見る…」
 修一は嬉しそうに続けた。私達は一年前に戻れたのだ。笑いながら私は言った。
「実現するの、大変そうだね」
「一生かけて、ひとつずつ実現していこう」
 今までの辛い日々が嘘のようだった。私達は乗り越えられたのだ。私達は、現実で生きていけるのだ。そう思ったとき、私の携帯が鳴った。修一の表情が一瞬固まった。その修一の表情の変化を見て、私は携帯を見るべきか見ざるべきか悩んだ。まだぎくしゃくしている。修一は表情を元に戻し「普通」を装うように言った。
「出たら?」
 私は「うん」と返事をし、携帯を開いた。林さんからのメールだった。
「そうそう。林さんと井沼さん付き合うことになったんですって」
 私はこの前林さんがケーキを持ってきてくれて長話をしていたこと、井沼さんとの事を聞かされたことを修一にかいつまんで説明した。修一は表情を一切崩さず相槌も打たず、静かに私の話を聞き、こう言った。
「林さんのメールは何て?」
 私は責められているような気分になり少し圧迫感を感じた。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清