雪の桜
雪の桜
序章
この世の中のどれだけの人が、人に対して、この人が死んでくれたら、と本気で願ったことがあるだろうか。
どれだけの人が、自分を殺すしかないほどに、人を愛したことがあるだろうか。
これは、私が、愛した男を殺した記憶である。
第一章 業
自分で人生を終える時期を決めてはいけないと、誰が決めたのだろう。恋愛も結婚も仕事も、その始まりも終わりも人は全て自分の意志で決めるのに、何故生きることだけは自分で決めてはいけないのだろう。
人間には個性がある。得意なことと不得意なことがある。
生きるのが苦手な人間もいる。生きるのが苦痛だという人間もいる。そんな人間が、なぜ生きることを終わりにしてはいけないのだろうか。それは生きることが得意な人間の、傲慢さと押し付けではないのか。人間は、綺麗ごとで自分を飾った悪意の無い悪意の塊だ。多くの人は、自分の悪意に気付かないまま、その一生を終える。
私は生きることが苦手だった。ずっと、生きることが苦痛だった。もし生きることを辞めることが出来たらどんなに楽だろうと、ずっと思い続けてきた。恵まれた環境で育ったとか複雑な環境に育ったとか、苦労したとかしないとか、そういった後天的なこと以前に、人には持って産まれた性質がある。先天的に、生きることに苦痛を伴う人種が存在する。弱さと言われればそうなのかもしれない。甘さと言われればそうなのかもしれない。自意識が強いと言われればそうなのかもしれない。でも、そういう人種は必死に生きている。懸命に自分自身と戦いながら生きている。その結果、壊れた事を何故責められるのだろうか。
私のその願望は、気持ちのバランスが保たれている時にはひっそりとなりを潜めている。まるで自分とは別世界の、ある限られた特殊な人種のみが保有する稀有な感情であるかのように。ところがそれは、思いもつかない何かが起因し、私の全てを支配してしまうほどの力を持つ黒い大きな幕となり、あっという間に私を飲み込んでしまう。そして飲み込まれてしまったらもう、その力が気まぐれにその拘束力を緩めるまでは、決して抗えずにもがき苦しむしかない。その呻きは法則性を持たず、突如として私を襲う。町中であれ仕事中であれ友人達と食事を楽しんでいるときであれ愛する人と愛を語り合っているときであれ、いつ何時であれ彼はかまわずに私を襲う。
周囲の人間が私のこんな願望を知ったらきっと驚くことだろう。贅沢な悩みだと笑止されるだろう。けれども私の人生には苦痛が伴ってきた。生きる意味を見出せないまま生きることが辛かった。何度も自分が間違っていると自分の願望を否定し、幸せそうな人を真似て生きる努力をした。私を覆う黒い幕は、そんな私の努力と共に年を追うごとに徐々に小さく薄くなり、あるいは私を支配する力を弱めていったかのように見えたが、完全にその存在が消える事はなかった。
年齢を重ねる毎に、私はそういう自分を不幸だと思うと共に、これ以上無いほどの誇りも持つようになっていった。何故なら至福の時は、苦悩の後にしか訪れないということを知ったからだ。苦悩する事が出来るものだけが至福の瞬間という褒美を得る事が出来る。苦悩が深ければ深いほど、後に得る至福は得がたいものとなる。
そのひとつが、激しい愛に身を焦がす事だと思っていた。そういう人間だけが、生と死に繋がる恋愛に身を焦がすことが出来るのだと私は思っていた。
生きることは苦痛を伴い、常に死への憧れを意識することである。
人を愛するということは、その苦痛を和らげ、幻覚を見せる麻薬でもある。
生きることに苦痛を感じる人間ほど、麻薬が必要だ。麻薬が無いと、辛すぎて生きることを続けられないから。
そして麻薬は、確実に身体を蝕む。
そんな刹那的な生き方から逃れることが出来ないと私が確信したのは、三十歳を迎えた頃だった。
「君が死んだら、君の肉を食べたい」
修一は雪の降る夜、私を抱きしめながら、そう言った。修一と出会ったのは私が三十歳の時だった。あの出会いからまだ一年半しか経っていない。
第二章 思い出
捨てる神あれば拾う神あり。
今から一年半前、私は「拾う神」に感謝していた。
三年間付き合っていた恋人と別れた事で全てに対して無気力になり、ただ時の流れに身を任せ怠惰な日々を過ごしていた秋、私は叔母に呼び出された。叔母は父の年の離れた妹で、私にとっては姉のような存在だった。型にはまらない自由な生き方をする叔母は堅実で真面目な父とは反りが合わず、何かあると叔母にとっては義理の姉にあたる母の方を良き理解者として頼ってきていた。私と叔母は姉妹のように一緒に旅行に行ったり買い物に行ったりする仲だった。一人っ子の私にとって、叔母の存在は貴重なものだった。
「ちょっと相談があるから、今週中に店に寄ってくれる?」
叔母はそう電話で伝えてきた。叔母は小さな画廊を経営していた。画廊といっても、繁華街から少しはなれた一角に狭いスペースを借り、自分の作品や知人の作品を展示販売したり、仲間達の個展を開いたり、趣味で仕入れた雑貨を細々と販売しているだけの店だった。叔母の本業は画家で、全く有名ではないが定期的に個展を開き一応それなりに食べていけるだけの収入はあるようだった。叔母に直接確認したわけではないが、私は叔母にはパトロンがいて、彼女の生活を面倒見ているのだろうと思っていた。何故そう推測するかと言うと、芸術家にパトロンはつきものだという俗説からだけではなく、叔母はまだまだ若く美しく十分に魅力的でいつも男性の影が感じられるという理由と、世間知らずな叔母一人の力で小さい店とは言え画廊の経営が出来るとは思えないからだった。
私は叔母の作品が好きだ。抽象的な画風で、いつも何を描いているのかわからない。タイトルを見て「なるほど」と思うかさっぱりわからないか、前者であるケースは血の繋がりのある私ですら二割程度だ。叔母の作品は色が美しい。鮮やかで深い海の底のような青や、噴き出したばかりの血かワインのように艶やで重みのある赤。時に金や銀も使われている。そのような独特な色がキャンバスの上を自由に行き来し織り成す世界は、何とも言えず魅惑的だ。叔母の作品は、決して数は多くは無いがその世界観を好む一部の人たちの間で大切に扱われている。叔母の画廊は私のマンションから電車で二十分ほどの繁華街の端に位置していた。月曜の会社の帰り道、私は叔母に連絡を入れ画廊に立ち寄った。
「ロンドンに行くことにしたの」
またいつもの気まぐれな旅行の話かと私は思った。画廊に着くなり、叔母は私に向かって話し出した。いつになく目が輝いて、希望と喜びを隠そうとしても溢れ出てきてしまう子供のようだった。叔母はロンドンには旅行で行くのではなくて移住すると言った。知人が日本人の作品を紹介する為にロンドンに画廊を開くので、それを手伝いながら拠点をロンドンに移したいという話を、夢を見るように、かつ現実的に話して聞かせてくれた。
「自分で言うのもなんだけど、私の作品は日本よりもヨーロッパで受けるみたい」
と叔母は自画自賛もしていた。芸術家はナルシストでないと務まらない。
序章
この世の中のどれだけの人が、人に対して、この人が死んでくれたら、と本気で願ったことがあるだろうか。
どれだけの人が、自分を殺すしかないほどに、人を愛したことがあるだろうか。
これは、私が、愛した男を殺した記憶である。
第一章 業
自分で人生を終える時期を決めてはいけないと、誰が決めたのだろう。恋愛も結婚も仕事も、その始まりも終わりも人は全て自分の意志で決めるのに、何故生きることだけは自分で決めてはいけないのだろう。
人間には個性がある。得意なことと不得意なことがある。
生きるのが苦手な人間もいる。生きるのが苦痛だという人間もいる。そんな人間が、なぜ生きることを終わりにしてはいけないのだろうか。それは生きることが得意な人間の、傲慢さと押し付けではないのか。人間は、綺麗ごとで自分を飾った悪意の無い悪意の塊だ。多くの人は、自分の悪意に気付かないまま、その一生を終える。
私は生きることが苦手だった。ずっと、生きることが苦痛だった。もし生きることを辞めることが出来たらどんなに楽だろうと、ずっと思い続けてきた。恵まれた環境で育ったとか複雑な環境に育ったとか、苦労したとかしないとか、そういった後天的なこと以前に、人には持って産まれた性質がある。先天的に、生きることに苦痛を伴う人種が存在する。弱さと言われればそうなのかもしれない。甘さと言われればそうなのかもしれない。自意識が強いと言われればそうなのかもしれない。でも、そういう人種は必死に生きている。懸命に自分自身と戦いながら生きている。その結果、壊れた事を何故責められるのだろうか。
私のその願望は、気持ちのバランスが保たれている時にはひっそりとなりを潜めている。まるで自分とは別世界の、ある限られた特殊な人種のみが保有する稀有な感情であるかのように。ところがそれは、思いもつかない何かが起因し、私の全てを支配してしまうほどの力を持つ黒い大きな幕となり、あっという間に私を飲み込んでしまう。そして飲み込まれてしまったらもう、その力が気まぐれにその拘束力を緩めるまでは、決して抗えずにもがき苦しむしかない。その呻きは法則性を持たず、突如として私を襲う。町中であれ仕事中であれ友人達と食事を楽しんでいるときであれ愛する人と愛を語り合っているときであれ、いつ何時であれ彼はかまわずに私を襲う。
周囲の人間が私のこんな願望を知ったらきっと驚くことだろう。贅沢な悩みだと笑止されるだろう。けれども私の人生には苦痛が伴ってきた。生きる意味を見出せないまま生きることが辛かった。何度も自分が間違っていると自分の願望を否定し、幸せそうな人を真似て生きる努力をした。私を覆う黒い幕は、そんな私の努力と共に年を追うごとに徐々に小さく薄くなり、あるいは私を支配する力を弱めていったかのように見えたが、完全にその存在が消える事はなかった。
年齢を重ねる毎に、私はそういう自分を不幸だと思うと共に、これ以上無いほどの誇りも持つようになっていった。何故なら至福の時は、苦悩の後にしか訪れないということを知ったからだ。苦悩する事が出来るものだけが至福の瞬間という褒美を得る事が出来る。苦悩が深ければ深いほど、後に得る至福は得がたいものとなる。
そのひとつが、激しい愛に身を焦がす事だと思っていた。そういう人間だけが、生と死に繋がる恋愛に身を焦がすことが出来るのだと私は思っていた。
生きることは苦痛を伴い、常に死への憧れを意識することである。
人を愛するということは、その苦痛を和らげ、幻覚を見せる麻薬でもある。
生きることに苦痛を感じる人間ほど、麻薬が必要だ。麻薬が無いと、辛すぎて生きることを続けられないから。
そして麻薬は、確実に身体を蝕む。
そんな刹那的な生き方から逃れることが出来ないと私が確信したのは、三十歳を迎えた頃だった。
「君が死んだら、君の肉を食べたい」
修一は雪の降る夜、私を抱きしめながら、そう言った。修一と出会ったのは私が三十歳の時だった。あの出会いからまだ一年半しか経っていない。
第二章 思い出
捨てる神あれば拾う神あり。
今から一年半前、私は「拾う神」に感謝していた。
三年間付き合っていた恋人と別れた事で全てに対して無気力になり、ただ時の流れに身を任せ怠惰な日々を過ごしていた秋、私は叔母に呼び出された。叔母は父の年の離れた妹で、私にとっては姉のような存在だった。型にはまらない自由な生き方をする叔母は堅実で真面目な父とは反りが合わず、何かあると叔母にとっては義理の姉にあたる母の方を良き理解者として頼ってきていた。私と叔母は姉妹のように一緒に旅行に行ったり買い物に行ったりする仲だった。一人っ子の私にとって、叔母の存在は貴重なものだった。
「ちょっと相談があるから、今週中に店に寄ってくれる?」
叔母はそう電話で伝えてきた。叔母は小さな画廊を経営していた。画廊といっても、繁華街から少しはなれた一角に狭いスペースを借り、自分の作品や知人の作品を展示販売したり、仲間達の個展を開いたり、趣味で仕入れた雑貨を細々と販売しているだけの店だった。叔母の本業は画家で、全く有名ではないが定期的に個展を開き一応それなりに食べていけるだけの収入はあるようだった。叔母に直接確認したわけではないが、私は叔母にはパトロンがいて、彼女の生活を面倒見ているのだろうと思っていた。何故そう推測するかと言うと、芸術家にパトロンはつきものだという俗説からだけではなく、叔母はまだまだ若く美しく十分に魅力的でいつも男性の影が感じられるという理由と、世間知らずな叔母一人の力で小さい店とは言え画廊の経営が出来るとは思えないからだった。
私は叔母の作品が好きだ。抽象的な画風で、いつも何を描いているのかわからない。タイトルを見て「なるほど」と思うかさっぱりわからないか、前者であるケースは血の繋がりのある私ですら二割程度だ。叔母の作品は色が美しい。鮮やかで深い海の底のような青や、噴き出したばかりの血かワインのように艶やで重みのある赤。時に金や銀も使われている。そのような独特な色がキャンバスの上を自由に行き来し織り成す世界は、何とも言えず魅惑的だ。叔母の作品は、決して数は多くは無いがその世界観を好む一部の人たちの間で大切に扱われている。叔母の画廊は私のマンションから電車で二十分ほどの繁華街の端に位置していた。月曜の会社の帰り道、私は叔母に連絡を入れ画廊に立ち寄った。
「ロンドンに行くことにしたの」
またいつもの気まぐれな旅行の話かと私は思った。画廊に着くなり、叔母は私に向かって話し出した。いつになく目が輝いて、希望と喜びを隠そうとしても溢れ出てきてしまう子供のようだった。叔母はロンドンには旅行で行くのではなくて移住すると言った。知人が日本人の作品を紹介する為にロンドンに画廊を開くので、それを手伝いながら拠点をロンドンに移したいという話を、夢を見るように、かつ現実的に話して聞かせてくれた。
「自分で言うのもなんだけど、私の作品は日本よりもヨーロッパで受けるみたい」
と叔母は自画自賛もしていた。芸術家はナルシストでないと務まらない。