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雪の桜

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「店をオープンしてすぐの頃、修一は思いがけず彼女に再会してしまったんだ。それもよりによって、彼女は修一の店に客として来てしまった。彼女の旦那と一緒に。もちろん修一の店だとは知らずにね」
 運命は残酷なものだ。どうやってもその必然性を見出せない、酷い仕打ちが人を襲うことがある。
「その時は人手が足りないといって僕も店に借りだされていた。修一より先に彼女に気付いた僕はあわてて彼女を店の外に出そうと話しかけた。そこで、修一が気付いてしまった」
 修一は冷静だった。異様なほどに。彼女に対して「お久しぶりです」なんて礼儀正しい挨拶をしていたよ。修一がそんな態度を取ったものだから、彼女の旦那まで僕と修一に「お知り合いですか?家内がお世話になってます」なんて挨拶して来て、僕と彼女だけが真っ青な顔をしていた。彼女はすぐに旦那を促して逃げ帰るように店を出て行った。今思うと、彼女の顔には恐怖の感情が浮かんでいた。僕と話したときは泣きながら「私が悪かった」なんて言って悲劇のヒロインになりきっていたのに、女とは身勝手なものだとつくづく思ったよ。
 その夜修一に、前に彼女に会って全て聞いたことを話したら、拳を握り締めて泣いた。彼がああいう姿を見せるのは俺だけなのかもしれない。その時に修一はこう言った。
「僕には人を愛する事は出来ない。愛して失う事が怖い。おかしくなりそうなほど怖い。おかしくなって壊してしまう」
 俺は、無理するな、いずれ自然に愛し合える人が表われる、今は無理する必要はない、と、言った。男は皆臆病者だよ、とも言った。その時の修一には全く響かなかっただろうけどな。その直後、暫く修一は睡眠薬と安定剤を飲んでいたよ。眠れないというので僕が知り合いの信用できるカウンセラーを紹介した。

 ここまで話して、柿谷は水割りのおかわりを頼んだ。私は暖かいコーヒーを頼んだ。私の鼓動は早くなっていた。

 修一を舞ちゃんと引き合わせるのは少し悩んだ。二人は気が合いそうだと真樹は言っていたが、舞ちゃんが修一のことを受け止められるかわからなかった。それは、正直今でもわからない。もう僕と真樹の関係については知っていると思うけど、僕は真樹を大切に思っている。その姪御さんである舞ちゃんを苦しめるわけにはいかないと思った。でも、あれからもう六年経った。仕事も軌道に乗って修一は立派な男に成長した。カウンセラーからは、気持ちの問題ももう大丈夫だろうと聞いていた。もちろん長年薬も飲んでいないはずだ。修一もそろそろちゃんと女性と向き合えるのではないだろうか、という賭けのような気持ちもあって、引き合わせたんだ。

「今は、二人を引き合わせて良かったと思っている。舞ちゃんと付き合う事になってすぐに修一から電話があって一晩中話したよ。舞ちゃんとならやっていけると、修一の声は希望に満ちていた。だから心配してなかったが、この前の電話があったから、舞ちゃんには全て話しておいたほうが良いと思った。修一からは話さないだろうから」
 柿谷は水割りの氷を溶かしながら、少しずつ飲んでいた。

「どんな経験をしたかは、人がどう生きるかに関係は薄いかもしれない。過去の経験を、生き難いことの理由にするのは甘えかもしれない。でも、理由が何であっても、修一の苦悩は僕らが思っているよりも重い。それが、修一なんだよ」
 柿谷は、きっと叔母のことも同じように受け止めてくれているのだろう。柿谷と叔母は分かり合える部分が多いのだろうと、柿谷の言葉から感じた。
「人の視野は自分が思っているより圧倒的に狭い」
 柿谷は続けた。人それぞれ感受性は全く違い、ひとつの物事も自分では思いもつかないほど色々な角度から判断され、色々な受け止め方をされる。拒絶する人も居れば受容する人も居る。無関心な人も居れば、共感する人も居る。血の繋がった家族でも、愛し合う人でも、意外とその人の想いはわからないものだ。
 年を重ねれば重ねるほどその多様性を知ることになり、自分の感覚が不確かなものに思えてくる。
「何を信じるか、大事に思うかは人それぞれだよ」
 柿谷は私の方を見てそっと微笑んだ。

 私は頭の中でたった今柿谷から聞いたばかりの修一の人生を反芻した。この数ヶ月間の、修一の言葉、行動、態度、表情、パズルのように私の脳裏に張り付いていた修一のひとつひとつが、一枚の絵画となって完成したような気がした。
 それは、私の想像をはるかに超えた、悲しい色の絵画だった。ここまで深い付き合いをしていても察することさえ出来なかった、哀しみが詰まった色であり、風景であった。
 まるで、この世で生きるうえで経験する、様々な人としての試練は軽く乗り越えたと言わんばかりの明るさと余裕を感じさせる風格で日々を過ごす修一が、こんな悲しさを秘めていたのかと思うと、最も近くに居る存在としての罪悪感に、私の心臓が締め付けられた。気付くことが出来なかった自分が、とても小さく浅い人間に思えた。
 人の気持ちはわからない。私と修一はひとつになり、誰よりも理解し合えていると過信していた。修一はきっと、私よりもずっと脆い。私は修一を守りたいと思った。修一が愛しかった。

 柿谷のもうひとつの話は、叔母の事だった。
「妻が真樹のことに気付いたんだ。訴えると言い出した」
 私は間を空けず柿谷にどうするつもりなのか聞いた。来週、妻と話し合う。と柿谷は言った。それ以上の事は何も言わなかった。私も聞かなかった。
 私は叔母の気持ちを思った。柿谷はすぐに叔母を選ぶと決めなかったのだろう。何年も妻と別居し、何年も叔母と付き合い、それなのに何故決められないのか。結局は男というものは、女の言いなりに流される生き物なのか。もしくは楽な方へと流されるのか。だとしたら、私達女は、男の何を信じるべきなのだろうか。

 翌日、私と修一は柿谷と食事を共にした。
 修一はとても楽しそうだった。修一は私との事をまるで子供が親に遠足がどんなに楽しかったかを報告するように、嬉しそうに柿谷に伝えた。柿谷はそんな修一を見て目を細めていた。二人の、兄弟のような親子のような絆が感じられ、私達は幸せだった。叔母の事を除いては。私は柿谷に、奥様との話し合いの結果を私にも教えて欲しいと頼んだ。離れている叔母が心配だから、と。柿谷は頷いてくれた。

 その日は、仕事の話があるからと言う柿谷と修一をバーに残し、私は先に帰った。私がタクシーに乗るまで送ってくれた修一は
「今日は先に寝ていて」
 と頬に優しくキスをしてくれた。私はいつものようにタクシーの中から後ろを振り返り、見えなくなるまで修一に手を振ろうとした。タクシーが角を曲がり修一の姿が見えなくなる瞬間、修一は私に向けて振っていた手を降ろし、それまで自然なものに見えていた笑顔を急激にある表情に変化させた。その顔は、この前部屋で言い争いをした時にはじめて見た、世の中の全てを諦めたような悲しい表情だった。私は胸の奥がわずかに騒ぎだす感覚を覚え、すぐに、たった今別れたばかりの修一に電話をした。
「今日は、私のマンションに帰ってきて。先に寝ているし、朝でもいいから」
 と私は早口で言った。その後、ゆっくり
「柿谷さんとゆっくりして来てね」
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清