雪の桜
「舞ちゃんには修一を理解してやって欲しいと思っている」
という柿谷の横顔は、悲しそうに見えた。柿谷の話は、修一から聞いた話とほぼ同じだった。一部を除いては。
修一は幼い時に父親が事故で亡くなった後、母親と暮らしていた。母親は美しい人だった。その為か、勤めに出た会社の社長に見初められ、愛人になった。母親は優しい人だったが、意志の弱い人でもあった。そして経済力も無かった。年の離れた見知らぬ男が毎晩自分達の部屋を訪れ、その度に別室で母が呻く声を聞く生活を修一は嫌がった。優しかった父親と母親との、微かな幸せな思い出が汚される様だったと言っていた。父親のことは、家族三人で一緒に水族館に行った記憶しかないと修一は言っていた。まだやっと言葉を話せるようになるかならないかの修一に、一生懸命魚の説明をしてくれる父親の笑顔を覚えていると。
徐々に修一はそんな男の言いなりになる母親も憎むようになり、自ら母親の祖父母の家に身を寄せた。祖父母は修一を猫可愛がりしたそうだ。利発で思いやりもある修一は高齢のために寝込みがちになっていた祖父母の面倒を見ながら学校に通った。あの時代にそんなに苦労している子供は居なかったのは舞ちゃんも知っているだろう。不平不満も言わずに祖父母の介護をしたり、家事を手伝ったりしていたそうだ。先に祖父が亡くなり、その一年後に祖母が亡くなった時には、修一は亡骸から離れなかったそうだ。祖母の亡骸の横にじっと正座して涙も出さず一睡もせず何も食べず、何かを睨みつけるように動かなかったらしい。親族が葬儀のために祖母の亡骸から修一を離そうとしたら、亡骸に抱きついて大声で泣いたそうだ。おばあちゃん僕を置いてかないで、一人にしないで、と泣いていたらしい。それから修一は笑わなくなった。これは、彼の義理の父親から聞いた話だ。
修一が入社して僕の部下になった頃、彼はとても扱い辛い男だった。ただ、筋は良いと見込んで他の部下よりも気にかけていた。修一が仕事に慣れた頃、修一の義理の父親が僕を尋ねてきた。亡くなった母親の再婚相手だ。その頃、修一は自分が住むマンションの保証人になって欲しいと僕に依頼してきて、僕は引き受けていた。彼の父親は、修一がマンションの保証人を見つけたから父親を保証人から外すという連絡をしてきた為、保証人になってくれる人物に会って挨拶をしておきたいと言って、僕に会いに来た。まっとうな礼儀を持ち合わせた父親だった。彼から、修一の過去の話を全て聞いた。もちろん、修一も全て話してくれていたが。母親はそのパトロンだった社長、僕に会いに来た義理の父親と再婚していた。社長の妻が病死したので、後妻に入ったそうだ。生活は裕福だったが、その新しい父親と母親との間には二人の子供が産まれていた。当然修一の居場所は無い。小さい頃に憎んだ新しい父親は、思いがけず修一に気を使ってくれる優しい人間だった。だからこそ修一は、祖母を亡くした後一度は母親家族と一緒に暮らしたが、新しい父親と母親に気を使って高校進学と同時に家を出た。生活だけは父親が十分な仕送りをしてくれて不自由はなかった。ただ、修一は愛情に飢えていたのかもしれない。彼が受けた愛情は、幼い、あまり記憶に無いころに両親から受けた愛情と、数年の間祖父母から受けた愛情だけだった。母親からの愛情は、彼はあまり受けた記憶が無いと言っていた。
学生時代はとにかく勉強したらしい。人並みに仲間達と遊びもしたらしいが、女性を本気で好きになった事は無いと言っていた。修一は見かけが良いから女性には困らないと周囲からは思われていた。あの頃は多くの女性が言い寄っていたが修一は一切相手にしていなかった。入社して少したった頃、修一は一人の女性と付き合い出した。その子は地味でおとなしい子だった。修一と同い年くらいで、何が良かったんだかはわからないが、急速に親密になった。修一はよく笑うようになったよ。ところが、付き合って二年くらい経った頃、あっさり別れたんだ。どうしたのか聞いたが応えてくれなかった。
それから数年間修一は仕事に打ち込み、独立してここまで成功した。その間、ちゃんと付き合った女性がいるという話は聞いた事がなかった。独立して落ち着いた頃に修一は、昔付き合っていた子は死んだと言った。精神的に脆い子で病院にかかっていたと。あの時は自分を保つのに精一杯で本当の事を誰にも言えなかったと。
「でも、それは修一の嘘だった」
と柿谷は続けた。
柿谷は修一が付き合っていた子に偶然仕事を通して再会したと言う。数回しか会った事が無かったがよく覚えていたそうだ。彼女は自殺したと聞いていたため、驚いた柿谷は彼女に真相を聞いた。すると、修一の話は彼女の話とは反対だった。彼女と付き合ううちに、修一は過去に経験した、大切な人が居なくなる記憶に苛まれるようになったらしい。父親や母親や祖父母のことだろう。修一は睡眠薬を飲むようになり、極度に彼女を失う事を恐れるようになった。彼女は一緒に居ると修一も自分も壊れると思い、自分から逃げるように離れていったそうだ。修一は追わなかったらしい。彼女は今は他の人と結婚して幸せに暮らしていると言っていた。自分には修一を受け入れられなかったと泣いていた。
修一は、きっと彼女との記憶を葬りたかったんだろうな。だから死んだなんて言ったのかもしれない。
修一の脳は、生きる為に記憶を曲げたのだ、と私は思った。
柿谷は話を続けた。
修一にそのことを話すべきかどうか長い間悩んだ結果、話さないことに決めた。彼女を死んだ事にしないと過去と決別できないなんて、尋常じゃない。僕が話を蒸し返す事で、修一がまた睡眠薬や安定剤に頼るようになってしまったら今度は取り返しがつかなくなるかもしれないと思ったからだ。柿谷は続けた。
「舞ちゃんに誤解して欲しくないんだが、修一は至極まっとうな人間だ。頭は切れるし仕事は出来る。仲間からも信頼され好かれている。だからこそ、今もこうやって成功している。ただ、人間には得意分野と不得意分野があるだろう?」
私は頷いた。それは、私もいつも感じている事であり、私の暗く重い願望はそれ故存在している。
「修一は、人と愛情を交わすことが不得意なのかもしれない。与える事も、受ける事も」
柿谷は、ひときわ重い表情を見せながら話し続けた。
「不得意な事を強いられ、自分の許容範囲の限界に達すると、心が悲鳴を上げる」
柿谷の話はわかりやすかった。
「ロンドンもそうだが、欧米ではカウンセリングは一般的だということは舞ちゃんも知っていると思うけど、僕は決して特別な事では無いと思っている。一時的に精神バランスを崩すという事は」
私は黙って、野菜スティックをつまんだ。
「誰にでも起こりうることだ。人の人生は予測不可能で、人間は脆い」
私は柿谷の考え方に共感した。叔母が柿谷を好きになる理由がわかる気がすると、このバーに入ってから感じ始めていた。
「修一はその子と別れた後も、一度だけ安定剤を飲んでいた時期があった」
私は、叔母が神楽坂の鳥鍋屋で口にしていた、柿谷が修一の健康を案じていたという話は、このことだったのだとやっと気付いた。