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雪の桜

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 私は事が深刻だと察した。今日は仕事後に食事としながら打合せをすると伝えていたはずだ。着信に気付かなかったのは申し訳なかったが予定がわかっているのだから心配する事は無いし、今までも仕事絡みで飲んで遅くなる事はあったと私は修一に言った。タクシーが自宅マンション前に止まった。私はお金を払い、外に出て歩きながら電話を続けた。
「とにかく家の前にいるから」
 修一の声が携帯電話から聞こえたと同意に、目の前のマンションのエントランスに、腕を組んだ修一の姿が見えた。
 
 私は驚いて立ち止まった。そこまで心配をかけた自覚が無い子供のような気分だった。とにかく部屋で話そう。と言って繋いだ修一の手は氷のように冷えていた。部屋に入るとすぐに修一は私に抱きついてきた。頬も冷え切っていた。私は修一を抱きしめた。
「心配させてごめんね。こんなに冷えちゃって」
 と私は修一の頬を両手で暖めた。私の両手の中に納まった修一の瞳は、捨てられた子犬のように頼りなげで私は胸を締め付けられた。修一はそのまま私をソファに押し倒し求めてきた。それはあまりに激しく荒々しく、いつもの修一ではなかった。私は恐ろしさを感じたのか反射的に修一を拒み、跳ね除けた。修一の表情が凍った。咄嗟にごめんなさい、と詫びると、修一は
「何故拒む」
 と声を震わせながら呟いた。地底から響くような静かで重い声だった。
「何故僕を拒む」
 修一ははじめて私の前で声を荒げた。目は充血し、顔の筋肉はこわばり唇は怒りに震えているように見えた。その表情は切実で、煮えたぎる何らかの想いを抑えに抑えているように感じた。いつもの修一ではない。
 私は一瞬パニックに陥った。この状況が何なのか理解できずに黙ってその場に座り込んでいるしか出来なかった。彼は何故怒っているのか、私の何が彼をここまで怒らせてしまったのか、他に理由があるのか、私は冷静に状況判断をしようと努めた。
 修一は膝を抱え、頭をその膝につけ、動かない。その背中の動きから彼は泣いているのだとわかった。私はゆっくり修一に近づき、「何かあったの?」
 と修一を抱きしめ、髪を撫でながら私は聞いた。修一は、長い沈黙の後に囁いた。
「拒まないでくれ。僕を拒まないで、受け入れて」
 私には、その意味がわからなかった。物理的な要望でない事だけは理解できたが、これ以上、修一の何をどう受け入れればいいのか、というのが私の正直な気持ちだった。十分すぎるほど修一の全てを受け入れていると思い込んでいた私は、どう答えれば良いのかわからないまま、修一の髪を撫で続けた。修一が少し落ち着きを取り戻すと、私はコーヒーを入れ、二人でソファに掛けた。 
 誰と一緒に居たのかと修一は聞いてきた。私は笑いながら井沼さんと林さんと一緒だったと応えたが、その時に始めて修一が井沼との事を心配していることがわかった。
「井沼さんは林さんが好きなのよ?心配する必要なんて全く無いし、画廊の事でとてもお世話になっている仕事関係の人よ?」
 と説明し、安心させる為にこう言った。
「私を信頼して」
 この時初めて修一の中に眠る激しい嫉妬心に気付いたが、私はまだ複雑な生い立ちが起因して寂しいが故、心配するが故の嫉妬だと好意的に受け止めていた。特に男性は仕事がうまく行っていないときには不安定になる場合もある。私は出来るだけ修一を理解し支えたいと思っていた。
 修一は私に約束して欲しいと言った。もう二度と、こんなに遅くまで僕以外の男と出歩かないで欲しい。出歩く時は僕も同席するか、まめに連絡をして欲しい。と。私は修一の取り越し苦労と知りつつも、修一が心配するならその約束を守ると言った。
 
 その後、修一の嫉妬深さが徐々に束縛となり私を締め上げ、結果的に私たちを破滅に追い込むほどに育ってしまうのかもしれないと、その時の私はほんの小さな予感を感じていたのかもしれない。いや、感じても不思議ではなかった。けれども、私の脳は、その予感を、記憶の端に追いやった。やっと掴んだ幸せを守る為に。

 六月の画廊でのイベントに先立ち、柿谷が帰国した。
 私は柿谷の帰国目的はこのイベントだけではないと私は思い込んでいた。何故なら、わざわざ柿谷が出るほどの大きなイベントでは無かったからだ。井沼も柿谷がイベントにあわせて帰国すると伝えると、このイベントの為にわざわざ帰国されるということは無いでしょう。他になにか仕事があるのでは。と推測していた。
 柿谷の帰国目的が他にもあると推測するもうひとつの理由は、叔母がロンドンに残っていたからだ。叔母とは毎週電話で話していた。画廊の事が主な用件だったが、言葉が思うように通じないストレスからか、叔母はいままで以上におしゃべりをしたがった。修一と私の事を尋ねてきたり、柿谷のロンドンの画廊の様子、叔母の生活、柿谷と叔母との関係について、日本では話さなかったことまで話すようになっていた。その結果、私はロンドンでの柿谷と叔母の生活を事細かに把握せざるを得ないことになっていた。もちろん柿谷には言わなかったが。
 その叔母からの電話がこの二週間無かった。画廊の状況報告をメールで送っても、返事が無かった。返事を要する内容ではなかったこともあり、私も自分の忙しさにかまけてそのままにしておいたが、柿谷から突然帰国の知らせを受けた時、私の不安が芽生え始めた。
 そして柿谷の帰国直前、叔母から電話があった。叔母は泣いていた。ずっと泣いていた。何を話しかけても泣いていた。本当は私に抱きついて泣きたかったのだろう。でも、異国にいてはそれは叶わない。私は黙ってずっと、叔母の泣き声を聞いていた。最後に叔母は
「ごめんね舞ちゃん。ありがとう。大丈夫だから」
 と言って電話を切った。
 私は、私達と叔母の身体に流れる、血を信じた。どんな時にも、誇りを失わない血を。

 久しぶりに会った柿谷は、少し痩せたように見えた。帰国の翌日、柿谷と私は井沼の手配により主要関係者と会食を持ち、イベントの成功を願った。その翌日には修一と三人で食事の約束をしていたが、柿谷はイベント関係者達との会食が終わると、私をもう一杯飲みに行こうと誘った。
「修一の話をしておきたい」
 と柿谷は言った。加えて、真樹の事も、と言った。私達は柿谷がよく知っているというバーへ入った。 

「修一とはうまく行っているようだね」
 柿谷は笑顔で言った。私も笑顔で頷いた。
 柿谷は
「修一の生い立ちと、過去の恋人の話は聞いた?」
 と何の前置きもなしに修一の話を始めた。
 生い立ちについては聞いたが、過去の恋人の事は聞いた事が無かった。修一は私の過去も知りたがらなかった。柿谷は続けた。
「修一から電話があった。舞ちゃんのご両親に認められる人間なのかどうか、自分にはわからないと」
 私は驚いて柿谷の目を見つめた。あの、鍋をした日の会話を思い出した。
「修一は家族の関係がどういうものなのか自分はわからないと思っている。そんなに難しいものじゃない。舞ちゃんが好きで大事なら、その気持ちが家族を思う気持ちと同じだと説明しても、経験をしていないという事が恐らく彼の不安の要因になっているんだろう」
 私は黙って聞いていた。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清