雪の桜
六月に予定されている陶芸家の個展の企画が発展し、都内で催されるある大きなアートイベントの一環として扱われる事になった。陶芸家にとっては売り出す為の大きなチャンスであり、長年その陶芸家を支援しているパトロン達やイベント企画会社の担当者にとっては久しぶりに力を入れる一大イベントとなった。叔母の言う通り、業務はほとんどイベント企画会社の担当者である井沼という男性が主になって進めていたが、私は井沼の指示に従い、画廊のオーナーとして関係各所への挨拶周りや会議への出席、会食への参加などをこなすこととなり、夜も含めて平日のほとんどは拘束されるスケジュールとなった。
マイペースの叔母の説明を真に受けていた私は画廊経営を甘く見ており、今の自分には圧倒的に芸術に関する知識が足りない事を痛感し、短期間での知識吸収を目下の課題とせざるを得なかった。その勉強については、長年このような芸術関連のイベント企画に携わり、日本国内の美術界に精通している井沼に全て指導をしてもらう事になった。というよりも、勉強は井沼からの提案でもあった。
「舞子さんもせっかく藤堂先生から経営を引き継がれるんですから、本腰を入れて拡大したら面白いと思いますよ。日本の美術界はこれからますます発展しますから可能性は無限です」
と井沼は言った。
藤堂先生とは叔母のことである。私の苗字は叔母と同じ藤堂なので、井沼は私を苗字ではなく名前で呼んでいた。井沼は私よりも五歳年上で離婚経験があった。今は仕事一筋の真面目な男性だ。柿谷も叔母も井沼に全面的な信頼を寄せていたが、確かに信頼に値する人物だった。井沼の元での画廊経営に、私は思っていた以上にのめりこんでいった。
修一との時間は土日だけになった。修一も店舗の経営が思わしくなく、平日は自分も全ての店舗を廻り、店を任せている店長達との会議などに明け暮れていた。私達は金曜の夜から月曜の朝までの、一緒に過ごす時間を心待ちにしながら平日の仕事をこなしていた。お互いの存在が支えになっていた。忙しいからこそ、一緒に過ごす時間とお互いを今まで以上に慈しんだ。時間の経過と共に私達の関係も安定していくように見え、なにもかもが順調だった。
私は画廊の仕事の話を事細かに修一に話していた。それは恐らく、画廊の経営と言う未経験で未知の仕事に対し、十分な予備知識も無く飛び込んでしまったことで当然のごとく付きまとう不安を解消するため、信頼する修一のアドバイスを求めていたのだ。修一は自らが経営者というだけあり、都度適切なアドバイスをしてくれた。私は修一に話を聞いてもらうだけで安心出来ていた。結果、それが自信にも繋がって行った。
滅多に仕事の話をしない修一に対して、私ばかりが仕事の話をするのは負担になるのではないかと思って一度修一に聞いた事がある。修一は笑いながら応えた。
「舞子の仕事の様子を把握できる方が僕はうれしいよ。舞子の事は何でも知っておきたいから」
この頃には私は修一から変わらず注がれる愛情に安心しきっていた。胡坐をかくようになっていたのかもしれない。不変の愛など存在しないに等しいのに。
その日は六月のイベントのため、井沼と陶芸家の林さんと三人で打合せを兼ねて食事をしていた。林さんは私と同い年で、日本人形のような静かな美しさを持つ女性だった。林さんの真っ直ぐでさらさらの黒髪は行き交う人を振り向かせるほど見事なものだった。彼女の作る器は青磁の繊細なもので、私は彼女の作る作品は彼女そのものだといつも思っていた。
今までは叔母の作品くらいしか目にしていなかったが、画廊の経営を始めてからは必然的に色々な芸術家の作品を目にすることになった。音楽にも共通する事ではあるが、ひとつの作品を見れば見るほど、その作者を知れば知るほど、最初は気付かなかった美しさや独創性やメッセージなどというものに気付くようになる。その解釈に正解も不正解も無いことは万国共通で、思う存分自分の世界でその作品を自由に愛でる事が出来る。これは、芸術全般を楽しむことの醍醐味と言えるだろう。限りなく広がる自分だけの空想と甘美の世界。私はその世界に浸ることが好きだった。
井沼と林さんと三人で集まると話が尽きなかった。気が合うのに加えてテンポが合う為、食事の後に必ず二軒目三軒目と、時間を忘れて語りつくすことはしばしばだった。井沼は、前々から林さんに想いを寄せている、と叔母が言っていた。あながち嘘でも無さそうだった。林さんを見る井沼の目は、少年のように素直だった。井沼の目を見て私は井沼に尋ねた。男性にとって、その人の前だと少年に戻れる女性とはどのような存在なのか、と。井沼は即答した。
「そんな女性が居たら男は恐らく手離さないですよ。よほど酷い条件が無い限りは」
「酷い条件って?」
と林さんは井沼に聞いた。
「例えば、もの凄い浪費家だとか、借金まみれだとか、アル中だとか、浮気性だとか、片付けられない女だとか、とてもまともに結婚生活を送れないような条件ですかね。結婚しないとしても、パートナーとして一緒に生活するのが難しい条件ですね」
「そういう酷い条件がなければ、子供に戻れる相手って男にとっては理想の人なの?」
林さんはまるで私の心の声を代弁してくれるように質問を続けた。
「それだけ自分を素直にさせてくれる相手って、そうそう居ないものなんですよ。男は見栄っ張りで弱いですから、好きな人の前でもなかなか兜を脱ぎ捨てないものなんです」
と井沼は言った。
「ふぅん。男って大変なのね。肩凝りそう」
と林さんは芋焼酎を飲みながら言った。彼女はとてもお酒に強い人だった。そしてマイペースだ。恐らく井沼は彼女の自由なペースに心を振り回されているのだろう。
悟と別れてからもう半年以上が過ぎていた。悟が選んだ新しい彼女は、悟にとっては「子供に戻れる相手」だった。理想の人と一緒になったという事なのだ。私は悟が今もきっと継続しているはずの幸せを喜ぶことが出来た。別れた頃はこんなに短期間で新しい愛を手に入れているとは思っていなかった。人生、本当に予測不可能で何がどうなるかわからないものなのだ。
「舞子さん、今の彼に愛されてるんですねえ。彼にそう言われたんでしょ?」
井沼は私に話を戻してきた。
「彼にそう言われてはいないけど、愛されてはいると思います」
と私は悪びれずに堂々と口にした。
「今度舞子さんの彼も一緒に飲みましょうよ」
林さんは提案してくれた。私も井沼ももちろん合意した。修一も喜んで参加してくれるだろう。
二人と別れた私はタクシーに乗った。マンションへ戻るまでの間に修一に電話をしようと携帯電話を見ると、修一からの着信が三回も入っていた。メッセージは無い。何か緊急の用事があったのかと思いすぐに修一に電話した。電話に出た修一の声は怒っている様だった。どうしたの?と私が聞くと、修一は低い声で静かに言った。
「どれだけ心配したと思っているんだ」