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雪の桜

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 この時の私は、修一は私にしか理解できないと信じ、私もまた修一にしか理解されないと信じていた。私達のこの魂の繋がりは誰もが経験するものではなく、自分たちだからこそ経験できる崇高なものだと信じていた。長く、深く、苦しんできた私たちに神から与えられた得がたいご褒美だと、至上の愛を得たと信じていた。このような感動を得られる人間が世の中に一体何人居るだろうと、限りなく傲慢に歪んだ自意識を持って、私は喜びに心を震わせていた。

 狂人の行為は、概して崇高な愛と解される。

 そのとき、すでに私達は狂気の世界へと足を踏み入れていた。この世で現実的に幸せに生きて行きたいのであれば決して一歩踏み出しては行けない世界へと。私達は止められなかっただろうし、止まろうなどとも思わなかった。何故ならそこが狂気への入り口だなどとは気付いていなかったから。必死だったのだ。麻薬中毒患者が、必死に麻薬を手に入れようとするように。そして、やっと手にした麻薬が手元から離れて行くことを恐れて、これからは生きなければならなかった。
 
 それが、私達が最も恐れていた、自らの暗闇を引き寄せる結果になるとは修一も私も知らなかった。出会ったことでやっと暗闇を遠ざけたと思っていた。打ち勝つ強さを持てたと思った。でも、私達の出会いは、私達がそんな禍々しいものから逃れられない運命だという事を知らしめたに過ぎなかった。

 私達のそれは、狂人の愛だった。いや、愛ではなく、強烈な自我であり強烈なナルシシズムであり、強烈な陶酔であり、そして強烈な祈りだった。単に、それだけだったのだ。

 三月に叔母がロンドンへ発つ数日前、叔母と私は両親と墓参りをした。南麻布の高台にある墓に行くのは久しぶりだった。その墓には、父と叔母の両親、私の祖父母と曽祖父母、そして私の、産まれなかった兄が眠っている。私が生まれる前に母が死産した兄だ。私は、自分はこの世に産まれなかった兄の分も生きなければならない運命だと昔から思っていた。叔母は暫く日本を離れる事を先祖に報告した。
「血の繋がりは、何より強いものだ」
 と、父は墓に手を合わせながら静かに言った。
「何かあったら、すぐに帰って来なさい」
 と父が背を向けながら叔母に言った言葉は、私と母にも、父と叔母の繋がりの強さを感じさせた。叔母はひとこと
「ありがとう兄さん」
 と言い、頷いた。その美しい目には涙が光っていたように見えた。墓参りの帰りに、麻布十番の更科堀井で蕎麦を食べようと言う話になった。父は東京で最も美味しい蕎麦屋は更科堀井だと昔から言っている。四人で食事をするのは久しぶりだった。

「舞ちゃんの画廊の準備はどうなの?ちゃんと出来そう?」
 母は心配そうに叔母に尋ねた。
「もう一通り関係者にも紹介したし、舞ちゃんが何もしなくても回りが動いてくれるから大丈夫」
 と叔母は応えた。舞ちゃんはいてくれるだけで良いんだから。と。
 画廊の準備は、叔母の言うとおり周囲が動いてくれていた。六月に開催する叔母の知人である陶芸家の個展に向けて、イベント会社の担当者が仕切りながら陶芸家と私とで打合せを進めていたが、基本的に私には大きな役目は無さそうだった。
「舞ちゃんも慣れたら積極的に企画して進めて良いのよ。何か思いついたらイベント会社の井沼さんに相談したら良いわ。彼なら形にしてくれるから」
 と叔母は言った。私は、いずれ今まで扱っていた絵本の展示をしたいと話した。叔母も母も賛同してくれた。
「あの絵本はなかなか良かったな」
 と父が言った。私が最後に担当した絵本の事だ。父が褒めてくれる事は滅多にないことだ。嬉しかった。最後に良い仕事が出来てよかった、と私は言った。
「舞ちゃんはお兄ちゃんに報告したの?田辺さんのこと」
 と叔母は口を滑らせた。母は誰の事かと問いただしてきた。父は無言だった。私は叔母を睨みながら、両親にそのうちちゃんと話すから、とその場は濁した。
「余裕のある男を選びなさい」
 と、父は静かに言った。普段あまり話さない父の言葉には重みと、到底逆らえない威厳がある。
 叔母は後で詫びてきた。もう両親に話していると思い込んでいた、と。私自身、そういえばそろそろ両親に話したほうが良いだろうか、と初めて気付いた。修一とはそんな話をした事は無かった。結婚をしようという将来の話はしていても、修一に家族がいないという事もあり、家族の話は無意識に避けていたのだ。

 その日の夜、修一のマンションで二人で鍋を食べた。修一は鍋が好きだった。家でリラックスした格好をしながらビールを片手に大切な人と鍋をつつくのが夢だったと言っていた。その日はきりたんぽを入れた鳥つくね鍋にした。一緒に準備をしてコンロで暖めながらゆっくりと鍋をつついた。
 冬の暖かい食べ物はどのような状況におかれている人間であっても、幸せにする力がある。修一は幸せそうだった。修一の笑顔を見る事が、私の幸せだった。きりたんぽを鍋に足しながら、私は今日の墓参りの話をした。叔母に両親の前で修一の話を出された事、そろそろ付き合っていることだけは話しておいた方が良いと思うことを話した。その時の修一の表情は、予想に反し、初めて見るものだった。私には困ったような戸惑ったような表情に見えたのだ。私はそのとき、それまで規則正しくスムーズに流れるように奏でられてきたオーケストラの演奏が、次第に観客に安心感を与え、次の旋律を期待させる盛り上がりを見せた段階で初めて、不協和音を奏でるような感覚を覚えた。
 私が黙っていると修一は口を開いた。
「ごめん」
 修一は俯きながら言った。
「誤解をしないで欲しい。舞子とは結婚したい。舞子以外とは考えられない。ただ、舞子のご両親に自分が認めてもらえるか、自信がないんだ」
 修一は言葉を繋げた。初めて修一の口から、私には理解が出来ない言葉が紡がれた。その時の私は、過去がどれほど修一を苦しめてきたのかを想像出来ていなかった。そして修一の苦悩を知った後でも、自分に経験が無い人の苦しみを理解するには、私は無知で傲慢過ぎた。おそらくその時は私達にとって、お互いの気持ちが通じ合わない初めての瞬間だったのだろう。修一の目の前で寂しさと孤独を感じながら、時間が過ぎた。鍋が煮え立ち、きりたんぽが形を崩して溶け出していた。修一は私を抱きしめ、もう少しだけ時間が欲しいと言った。私は、修一の腕の中で、大切に築き上げ、曇りひとつ無く磨き上げたはずの宝物が、微かに曇ってゆく気配を感じた。壊れないと信じきって寄りかかっていた椅子が、予想に反して軋み出した。

 叔母がロンドンへ発ってから、思いがけず画廊の仕事が慌しく動き出した。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清