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雪の桜

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「で、どんな内容の絵本なの?」
 と修一は私に尋ねてきた。
 守秘義務を忠実に守り、私はこんな発行部数の少ない絵本一冊であっても出版前には部外者に内容を漏らすことをしていなかった。私は修一に出版されたばかりの実物の絵本を見せた。単行本程度の大きさで絵本としては小さいサイズだった。イギリス人の若い作家が書いた物語と挿絵は、子供向けの絵本とは言え大人向けと言ってもおかしくない完成された美しさを持っていた。


 何も持っていない少年がいた。
家族も、友達も、住む家も、着る服も、食べるものも、本も、もちろんお金も、何も持っていなかった。

持っていないことが当たり前の少年は、持つという事が理解できなかった。

いつしか色々なものを「持つ」ようになると「持つこと」が嬉しくてひとつひとつをとても大切に思うようになった。

ところが、大切に思いすぎて、手放すまいと思いすぎて、うまく「持ち続ける」ことが出来ない。

「持った」経験がないため、どうやって大切にして良いかわからない。

大切に思う気持ち、やさしさの表現がわからない少年に、どうやって表現したら良いか、彼を見守る女神がゆっくりと教えていく。という内容だった。

 「大切なものは、やさしく、そっと包み込むのよ
 大切なものは、力を入れ過ぎると壊れてしまうから」

 この言葉が、この絵本の世界をあらわす女神の言葉だった。最終的に、少年が大切なものを包むことが出来るようになったかどうかは、読者に想像させるように物語は終わっていた。

 修一はこの絵本を読んだ後こうつぶやいた。
「僕も大切なものの扱い方や、やさしさをどうあらわすのか、わかっていないのかもしれない」
 修一はとても優しい。私に対しても柿谷にも叔母にも。私は修一のこの発言の意図を読み取れずに、デザートを食べるのを中断して修一の顔を見た。
「修一は私に十分優しくしてくれているじゃない」
 修一は俯いていた顔を上げ私の目を見つめた。その目は、すがるような悲しげな気持ちを表現しているように見えた。修一は私の目からワイングラスに目線を落とし、ゆっくり静かに言葉を発した。
「僕の愛情は、そのうち舞子を苦しめるかもしれない」
 修一はグラスに残った赤ワインを飲み干し、言葉を選びながら続けた。
「大事だから失いたくなくて、僕はきっと、力を込め過ぎてしまうと思う」
 そして不安そうな、すがるような目で私を見つめて言った。
「もし、そうなっても、僕から離れないで欲しい」
 この修一の言葉の陰に、どのような過去が隠されているのか、その時の私には想像することが出来なかった。
「何があっても離れないよ」
 恋愛の熱に浮かされている男女が当然言うべき言葉であろうと思われる一言を、その熱の最中にいた私はさも当たり前の如く口にした。私は、言葉の重みというものをわかっていなかった。自分が発した言葉がどのような意味を持つのか。相手にどれほどの影響を与えるのか。その重みが、その責任がどれほどのものであるのか。わかっていなかった。自分の許容範囲は愛によって無限になると信じるほどに、私は浅はかで無知で傲慢だった。
 窓から外を見ると、昨夜から気まぐれに降ったり止んだりを繰り返している雪の粉をたわわに枝につけた桜が、少し悲しげに見えた。修一は私の言葉を聞いて安心したのか、私の大好きな笑顔で微笑んだ。修一の笑顔はいつも私に魔法をかける。そうだ、私達はもう、修一の悲しみにも、私の暗い願望にも、覆われてしまう事は無いのだ。もうそのような暗闇は私達に寄ってくる事は無い。私達は二人でひとつになった。暗闇を近づけない強さを持つことが出来たのだ。私達は出会った事で生まれ変わった。修一の目を見て、私は勇気を感じた。
 愛は、希望と勇気を与えてくれる。
「舞子と一緒にいると嫌なことが無くなる」
 と修一は言った。
「嫌なことを忘れられるし、今まで嫌だと感じていたことも嫌なことじゃなくなる」
「だから、舞子がいなくなったら嫌なことだらけになってしまう」
 そう言い終えた修一は寂しげな子供のような目をしていた。私は修一を安心させるために、テーブルの上に置いていた修一の手を握った。
「もし僕が死ぬ事があるとしたら、それは舞子を失った時か、自分に絶望した時だ」
 修一は私をまっすぐに見つめた。その目は熱を帯び過ぎていて、私は見つめ返す事が出来ないほどだった。
 
 食事を終えた私達は店を出た。ひらひらと舞い降りる粉雪の中、修一と私は目黒川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いた。皮膚と内臓は耐え難いほどの寒さを感じ、心はお互いの気持ちがとろけあいひとつに結合される時に発生する、何よりも暖かい熱で暖められていた。お互いに言葉を口にすることなく、その黒い枝に真っ白な雪を積もらせた桜の木の下を歩いた。
 私は“I Loves You, Porgy”を聴きたくなり、バッグからiPodを取り出した。イヤフォンの片方を不思議そうな顔をする修一の左耳に入れ、もう片方は自分の右耳に入れた。修一は左手で私の肩を抱き、お互いのイヤフォンが外れないように顔を近寄せて寄り添った。私は“I Loves You, Porgy”を再生した。修一の顔にほんのりと笑みが浮かび、私の肩を抱く手に少し力が入った。

 目黒川の橋の上で、寄り添いながら“I Loves You, Porgy”を聴いた。見上げた目線の先一面に広がる、白く輝く雪の花を咲かせた桜の木は、満開の花を咲かせた桜の木よりも、ずっとはかなげで、美しかった。“I Loves You, Porgy”は、このはかなげな景色に溶け込んだ。私は、この瞬間に奇跡を感じた。

「君が死んだら、君の肉を食べたい」

 キース・ジャレットがiPodの中で丁寧にひとつの甘い曲を弾き終えた後、修一は正面から私を両腕で抱きしめながら、小さな声でそっと呟いた。
 それはとても微かな、静かな言葉だったが、修一の精一杯の、魂の叫びだと私には感じられた。その言葉と一緒に吐かれた修一の白い吐息を見つめながら、私は修一の全てを受け入れたいと願った。例え自分が壊れても、どうか修一の全てを受け入れ、この人の魂を暖めることが出来ますように。出会えた奇跡に、魂が震えた。今、ここに自分が存在する事に確かな意味を、産まれて初めて感じた。

 この雪の花に覆われた桜は、あとひと月もすれば自らの内から淡いピンクの花々を芽生えさせ、世の人々を春の世界へと誘う役目を負っている。今だけは、修一と私の為だけに雪の花を咲かせ、私達に至福の世界を見せてくれている。この桜を、ずっと覚えていようね。と、私は修一に言った。

 記憶は忘れ去られる。どんな記憶も、鮮やかなまま記憶しておくことはとても難しい。私は祈るような気持ちで、今この瞬間に私の全ての感覚で感じるものをこと細かに脳裏に、私自身に刻み付けた。決して忘れることの無いように。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清