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雪の桜

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 と少し寂しそうに呟いた。自己愛を貫く強ささえあれば、女は幸せになれる。安定した心の幸せを掴みたいのなら、女は自分の自己愛に疑問を持ってはいけないのだ。疑問を持ってしまったら、安定した心の幸せは訪れない。自由奔放に、感情の赴くままに生きていると思っていた叔母の、弱い一面を垣間見た気がして、それがおそらく、叔母が脆いガラスのように見える要因なのだろうと気付いた私は、少し切ない心境に陥った。

 食事が終わると叔母をタクシーに乗せ、私達は別のタクシーに乗り修一のマンションへ向かった。
「柿谷さんはきっと、真樹さんに救われている」
 と修一は言った。
「うまくいって欲しいね」
 修一はぼそっとつぶやいた。
「うまくいっているだろうけど、柿谷さんが叔母さんの色々な想いに気付いてないんだろうね」
 と私は話した。
「もしかしたら叔母さんも柿谷さんの色々な想いに気付いていないのかもしれない。二人のことは二人にしかわからないね」
 とも。修一は私の手を握ってこう言った。
「僕たちは、全て話し合おう。男と女は違うから話さないと分かり合えないことも多い」
 私はそういう提案をしてくれる修一に感謝した。私たちはうまくやっていけると思えた。私は修一の手を強く握り返すことで、その言葉に応えた。
 クリスマス直前の街は美しかった。いたるところがイルミネーションで飾り立てられ、昼間には目立つ街の薄汚さを隠しているようだった。多くの人間が自分の醜い内面を隠し、表面を綺麗に装う事に似ていた。
「さっきの春琴の話だけど、春琴は自分の目をつぶした佐助に、感謝したんじゃないのかな」
 修一は遠くに視線をやりながらそう呟いた。
「佐助の中で永遠に美しい観音様で居続けることを、春琴も望んでいたんじゃないかと思う」
 私は頷いた。人の行いは、見る角度によって如何ようにでも解釈が変わる。
「私は、究極の純愛だと思いたいな」
 私は修一の目を見て、そう応えた。修一は私の肩を抱き寄せた。


 クリスマスも年越しも修一と私は一緒に過ごした。クリスマスに、私は修一に白いセーターをプレゼントし、修一は私に小さなダイヤのついたペンダントをプレゼントしてくれた。まるで今まで別々に生きてきた時間を必死に埋めるように、私達は時間も想いも共有した。修一と私の会話には笑いが多かった。大した話でもないのにお互いにお腹が痛くなるほど笑いあった。私達には何も必要なかった。何も無い所から二人で楽しみを見つけられた。散歩するだけでも目にするものから会話を膨らませ、笑いにも夢にも希望にも繋がった。一万ピースの絵の無い難しいパズルが勘に任せてするするとはまっていくように、全ての相性がぴったりと不思議なほど合っていた。
 私達はお互いを知れば知るほど、会う事にも話す事にも、お互いを理解する事にも、徐々に切実さが加わってくるようになった。もっともっと、ひとつになりたいとお互いに思った。溶けてひとつになってしまいたいという欲望が湧いてきた。抱き合っても抱き合っても、溶けてひとつの存在になれない事がもどかしかった。もう、決して離れられないと私達は思っていた。

 年が明けたある日、私は神楽坂で叔母の口から出た私の知らない話について修一に聞いた。修一は仕事については少し売上げが良くないとだけ事を話してくれていた。普段の修一は仕事についてほとんど私に話さない。私は男性はそういうものだろうと特に詰問はしなかった。柿谷が修一の体調を心配していたという話については、修一は心当たりがないと言った。
「人間ドックも毎年受けているし、肝臓の数値があまり良くないだけで他に悪い所は無いよ。酒は控えめにするよ」
 修一は私を安心させようとしたが、私はその修一の対応になにか違和感を覚えた。修一との関係で初めて感じた違和感だった。

 人の脳は、生きるために記憶を曲げる。自分の幸せを壊す要因は記憶に留めておかないように、脳が自分を守りながら生きている。時として、いや、常に、人間の脳は、主人の都合の良いようにしか機能しない。脳は、主人に従順な哀願動物と似ている。人は、思い悩み、最も適切な選択をして崇高な人生を生きていると思いがちだが、脳は利己的な本人に都合よく感情や記憶を変化させているに過ぎない。私の脳は、その違和感を記憶の端に追いやった。

 私達はお互いの全てを知りたいと切望した。私達はお互いの身体も隅から隅まで知り尽くし、探りあい反応を確かめ合った。お互いの感情の全ても出し合い探り合い理解しようと努めた。
 修一は私に、私は修一になりたいと切望した。私達は別々の個体として存在する事に違和感を覚えるようになっていた。なぜ同一の個体になれないのだろうと、二人でよく話した。
「子供が出来れば、ひとつになれるのかもしれないね」
 と修一は言った。
「人間である僕達は、お互いの細胞を結合させて子供を作ることでしか、ひとつになれないのかもしれない」
 修一はそのあとにこう続けた。
「でも、僕は父親になるということが、どういうことなのかわからない」と。
 修一は一緒に居るときにはいつも私と触れ合うことを望んだ。外にいても手を繋ぎ、肩を抱き、必ず身体のどこかが触れている事を要望した。修一がこれほどまでに私を求めるのは、きっと今まで彼が背負ってきた孤独があるからだろうと思っていた。一人になるのが怖いのだろうと、私と会う事を子供のように喜ぶ修一を心から愛しいと思い、守りたいとも思った。私達は自由になる時間の全てをお互いに費やした。その時の私達はそうしたかった。

 二月になり、私の出版の仕事と引継ぎは大詰めを迎えていた。画廊の準備の方はマイペースな叔母の指示で動いているせいか、心配になるほど何もすることが無かった。
「三月から個展準備が始まるからそうしたら忙しくなるわよ。舞ちゃんがんばってね」
 三月中旬には日本を発つ予定の叔母はすっかり人事のように言っていた。
 おかげで私は出版の仕事に専念できていたが、二月半ばに担当していた絵本が出版されるまではほぼ毎日終電に間に合わず、タクシーで帰宅する日々だった。必然的に修一との会話の時間も十分に確保できず、自分自身の気持ちが安らぐ時間が無いだけでなく、修一が寂しがっているのではないだろうかという心配でも、同じように気が休まらなかった。修一はそんな私に理解を示し支えてくれた。土日には私のマンションへ来て、疲れて寝ている私にマッサージをしてくれて、掃除も料理もしてくれた。修一が忙しい時期には私は修一のマンションで掃除や洗濯や料理をした。私達は今の所、お互いの役割分担についても揉める事はなかった。自然にお互い足りない部分を補い合っていた。
 
 二月半ばに絵本が出版された。
 修一は中目黒のイタリアンでお祝いをしてくれた。その店は中目黒の駅から徒歩十分ほど歩いた川沿いに建ち、店内からは目黒川の桜が綺麗に見える店だった。柿谷から教えて貰ったその店を初めて訪れた時に修一と私はその店をたいそう気に入り、何かのお祝いにはまたこの店に来ようと約束をしていた。今回は二人で祝う初めてのお祝い事だった。私の担当した絵本の出版祝い。私達はシャンパンで乾杯をした。
作品名:雪の桜 作家名:蓮杜清