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お蔵出し短編集

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僕は寝ることも忘れて、携帯時計に仕掛けていた朝を告げる定時のアラームで自分が徹夜していたことに気がついた。
幸いだったことにはその日がひと月ぶりの僕の休日だったので、ため息をついた僕は目の前の彼女を眺めた。
彼女には結局ひとつだけ色が塗られていた。
それは彼女の『腰の辺り』にだけだ。
彼女のスカートには、あの時僕が個展で見た船の絵から着想した、深い大洋の青が塗られていた。
僕が時間をかけて彼女に与えられた色はそれひとつだった。
だけどそれで十分だった。
僕は彼女を棚に収めた。
するとその中で背伸びをする白い紙粘土の彼女は、色の付いた腰の辺りから僕の部屋の中という小さな世界に向かって、圧倒的な存在感と光ではない輝きを放っているように感じられた。
僕はその様に安堵し、知らず浮かぶ微笑みをかみ殺しながら、満足して床についた。



―――起きてみると、もう昼を少し過ぎていた。
僕はそれで、せっかくの休日をどう過ごそうかと考えて、ふと思い立った。
それは、あの個展にもういちど行ってみようということだった。
昨日の今日だ。
まさかまだ個展が終わっていることはあるまい。
果たして僕はそう思いながらも、少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。
それは勿論あの個展が万一終わっている可能性を考えてのことだったが、実はそれだけではない。
僕にはあの『スカート』のことが気になったのだ。
脇に絵の具が置かれ、壁に飾られたスカートのことが、だ。
一方で僕はあの個展の開かれているビルに辿り着けるか不安でもあった。
あそこは偶然辿り着いた場所に過ぎなかったからだ。
記憶を辿りながら会社に向かう駅で電車を降り、住宅街の方にだらりと足を運ばせた。
すると、

びっくりするほど呆気なくその個展の会場は見つかった。

『現代美術創作展』

建物も看板も、当たり前だが昨日のままで、僕はその中に足を踏み入れた。
昨日のままに作品が鎮座しており、その中を僕は歩いた。
目指すのは部屋の一番奥だ。
そこにはあのスカートが、アクリルのパネルの中に飾られているはずだ。

そして、

『スカート』はそこにあった。
しかし、それは『昨日のスカート』ではなかった。
新品だった絵の具のチューブは何本か開封され、ビーカーの中の水は不透明な色合いに濁りきっていた。
そして件のスカートには、前衛芸術ならではの様々な色合いが塗りたくられ、そこを訪れた来客の興味をそのままに表していて、少なくとも、

それは僕の『彼女』が纏っている大洋の青ではなく、
もっと異なる数多の意思を受け止めた結果である、雑多な想念を体現していた。

だがそれも当たり前と言えば当たり前だろう。
でも僕は何だか酷く、身勝手にも落胆するモノを感じてしまった。

あらゆる世界は、あらゆる芸術は、
きっと必ず裏切り調和を越えるからこそ、
心を揺さぶり、あるいは切り裂き、また癒すのだろう。

僕はそんなことを考えて、絵筆を手に取り、チューブの中から『せめて』と青を捻り出し、一筋端に真っ直ぐ上から下へと塗ってみた。
その青は僕の彼女の色合いとは似ても似つかなかったが、それでもそれは『僕の青』だった。
今このときの『僕の中にある青』に、きっと相違なかった。
そして僕はその個展を後にしようと、部屋の出入り口に向かった。
銀色のドアノブを捻り、押し開けた。
すると、

「きゃ」

と小さな悲鳴が聞こえた。
思わず身を竦めた僕の目の前で、書類の塔が壊れそうになるのが見えた。
だから僕は反射的に手を伸ばしてその塔の崩壊を防いだ。
つまりは、左右から挟むようにして体裁を整え、相手が身体のバランスを取り戻すまでの一瞬に、そこで構えたのだ。
「ああ、どうもすみません―――お客さんですね?」
塔の向こうから、声はそう呟いた。
続いてぴょこりと覗いたのは、幼さとかそばかす跡とかを頬の辺りに僅かに残した小柄な女性だった。
しかし、その目元や髪の艶などから、失礼ながら実際の年齢はもう少し初見の印象よりは上なのだろうなと目星を付けた。
細身の体型はよく言えば古典的に和風かつ控えめな印象で、悪く言えば女性的なふくよかさとはやや縁が遠そうだった。
何となく見えたその紙の塔のてっぺんから、彼女が持っているのがこの個展のチラシであることが分かった。
「ご来場有難うございます、私はこの個展を開いている者で―――」
彼女はそう言って名前を告げて、辛うじてといった様子で紙の塔を抱えたまま僕に頭を下げた。
僕は、だから彼女の抱える紙の塔に向かってもういちど手を伸ばし、その中の半分ほどを取りあげて抱えて、頭を下げ返した。
彼女は微笑み頷いてそれに応えた。
そして僕は開けたばかりの扉の中にもういちど戻り、彼女の後について行き手近なテーブルの上にチラシをバサリと置いた。

その時、

僕の目を奪ったモノがあった。

背後から見えた彼女の腰の辺りは、
身に纏うそのスカートは、
見覚えを感じるような、深い紺色をしていたのだ。

しかし、

初対面の女性の尻の辺りをまじまじと見つめる訳にも行かない。
それに、目の前の彼女の体躯は細く、僕が創りあげた『彼女』の像とは似ても似つかない。

でも、

外見なんて言うモノは、結局『言語』のようなモノなのではないだろうか?
世界のあちこちに社会があり、言語があり、そこで人はそれを通じて理解を深めたり、繋がったりしているのだが、根底にあるのは『意識』であり、それこそがその人が持つ『本質』なのだろう。
『僕の手が生み出す芸術』があくまで『僕の言語』ならば、『今目の前の、彼女の容姿』がそれと異なることには大きな意味はない。
大切なのは僕がそこに何を感じるのかなのであって、そこに繋がるとっかかりが『彼女のスカートの色』ならば、それはそれで面白いことなのかも知れない。
もうひとつ、何か僕を感じさせる切っ掛けがあったとするならば、きっと僕は彼女に何か――声をかけるべきなのだろう。
運命を信じる訳ではないけれど、他愛もない遊び心が許されるのならば、それは多分素敵なことと言えるのではないだろうか?

僕が漠然とそんなことを思っていると、山のようなチラシを運んで疲れたのか、彼女がうんと伸びをした。

「あ」

と、思わず僕の口から声が漏れた。
左手で右の手首を掴み空へと伸び上がるようにして、和弓のように背を反らした彼女は、
僕の目の前で、
実に伸びやかに、
凛々しく鮮やかで、その表情はまるで秋の風が抜けるように―――涼しかった。



<了>

作品名:お蔵出し短編集 作家名:匿川 名