お蔵出し短編集
僕はそこで、霧雨の中に、葬列が前に進むのを待ち立ち尽くす彼女のその左手を改めて見た。
無骨なそれは、彼女の小さな掌で、しっかりと握り込まれている。
彼女は右手の中にあった読みかけの文庫をぱたんと閉じた。
ふと僕の眼に入ったそれは、僕ですら名前くらいは知っている、とあるドイツの詩人の作品だった。
葬列が、ずるりと一歩ずつ前に進み始めた。
僕と彼女と、その前の人の間に、およそ一歩分の隙間が出来る。
そこで彼女がふと、
僕の方を見て、
この天気の中にもかかわらず、
不意にどこまでも晴れやかな微笑みを浮かべた。
「行かないと」
彼女はそう言った。
それはまるで雲の切れ間から注いだ一条の輝きのような、そんなどこまでも眩しく、かつ世界からは果てしなく場違いな美しい微笑みだった。
僕は、ふと右手の中にあるレコーダーのスイッチをカチンと切った。
道路の角の方を見ると、長く長く続く葬列のさらに端の方に、小首をかしげながらこっちを見る二人の男に気がついた。
その男たちは頷き合うと、ゆっくりと歩き出し、僕らの方に向かってきた。
彼女は、もう一度僕に向け頭を下げると、右手だけで器用に文庫をぺらりと開き、その中に再び眼を落とした。
そして、また一歩進む。
僕は、そんな彼女から三歩だけ後ずさる。
彼女の歩いた後から、少し遅れて引きずられる鉄パイプが、ガラン、と辺りに音を立てた。
<了>