お蔵出し短編集
僕は少しだけ内心で萎縮する。
そんなつもりは無かった。
僕がそんなことを言っても全く説得力は無いだろう。
何しろ僕は彼や彼女の親であり、子であり、兄弟でありかつ、本人なのだ。
『創りあげたもの』として、彼女のその過酷なばかりの人生責めを負うものがいるとすれば、それはきっと僕だ。
いや、むしろ、僕しか居ない。
だから、
「ごめん」
と僕は彼女に向けて呟いた。
すると、彼女は背後から自分のあごをコツンと僕の頭頂部に当てた。
「いいの」
そして彼女はそう応えた。
「何が良いんだよ。あんなひどい目に遭ってばかりで、ひとつも報われなかったし、文句のひとつも言うべきなんじゃないか?」
僕は不思議に思ってそう言った。
すると彼女は、
「それでも、良いの。
だってアタシはそこに『在れた』んだから。
アタシは自分が生まれてそこに在ったことに後悔なんてしていない。
あなたの筆がアタシを生んだんなら、アタシはそれだけで十分。
だって生まれていなかったらアタシは、ここの誰にも会えなかったんだし、そんなのアタシには想像も出来ない。
だから――良いの。あなたはあなたの書くままで。
――そうね、だからあなたに告げる言葉があるとすれば――それはきっとひとつだけ。
アタシを生んでくれて、ありがとう」
そう、続けた。
その声は快活そのもので、自分の運命を呪う様な闇はどこにも孕む余地すら無く、僕にはだから、それが逆に申し訳なかった。
なので、僕の口はゆるゆると開いた。だけど、出てきたのは
「それでも、ごめん」
そんなひとことだった。
やれやれと言った調子で刀傷の彼がかぶりを振った。
しかしその表情はどこか安らいでいる。
ゴホン、と咳払いが聞こえた。
それすらも陰気なのはきっと野心家の彼の方だ。
その彼が口を開いた。
「――まあ、ぼくも実はそれほど後悔をしている訳じゃ無い。確かに不遇なばかりの人生で、およそぼくを知った人がぼくを好きになることは無いだろうけど、それでもぼくはあと一歩まで迫ったんだ。それこそ世界の転覆までのあと一歩だ。考えてみたら、それって凄いことじゃないか?ぼくはだから、そんな自分を誇りに思うよ。ということは、だ。翻ってそれは――そんなぼくを生んだ君を誇りに思うって言うことさ」
卑屈なはずだった彼の声が、照れを含んでいることに気がついた僕は、反応に困って思わず苦笑した。
「さて、そろそろかな」
そう言ったのは刀傷の彼だった。
ん、と彼女が囁く。
彼女の腕が僕の首に周りからするりと解かれた。
「またね、というべきなのかしらね?」
巫山戯る様に彼女がそう言った。
僕の左肩に置かれた手から力が抜け、そっと後ろに引かれた。
「さあ、どうかな。何しろ気まぐれだから、我らが神でおわすはずのこちらのお方は」
足下でくるくると歩き回っていた小さな毛むくじゃらが、そっとその八の字を描くコースから身を外した。
くん、とひとこと上げた鳴き声にどこか名残惜しそうなものを感じたとしたら、それは僕の未練が反射していたからなのだろうか?
最後に、僕の右肩に置かれていた手が、一度だけぐっと僕の肩を力強く掴んだ。
言わんとすることはその力の加減から分かった。
僕と彼とは同じ事を思っていた。
僕には分かる。
だから、僕と彼との別れに言葉は無かった。
僕は彼の手に自分の左手を重ねて、上から軽く握った。
握手では無く、挨拶でも無い。
それは束の間の言葉では無い完全な意思疎通だ。
僕は彼に、彼は僕に、
「お疲れさん」
と手と手を介して、それだけを告げた。
夜明けの幽霊の様に彼らが音も無くこの部屋の中を動く。
僕の空間から去って行く。
僕はその姿を見ようとせず、あえて窓に向かって夜の空を眺めている。
カチャンと音がして、古いアパートの錆が浮いたドアが開く。
彼らが去って行く。
僕の部屋から去って行く。
パタン、と音がする。
ドアが閉まると同時に、僕はこの部屋に残されて、また静かなひとりきりの時間がやってくる。
もたれていた椅子の背から身体を起こし、ノートパソコンの画面にもう一度向かう。
そこには僕が生んだ彼らの世界が開かれたままになっている。
――最後の一打が押下されている。
画面の中に表示された文字列にはおしまいの『。』が打たれている。
蛍光灯の明かりの下で、僕はじっとノートパソコンの画面に見入る。
これで、満足か?
これで、十分か?
言い足りない言葉は無いか?
継ぎ損ねた呼吸は無いか?
――無い、と思う。
満足してもいる。
十分だと、納得している。
再度椅子の背もたれにぎいっと背中を反らし、天井を見上げた。
格子に似た柄の天井はいつもの様にそこにある。
これで、おしまい。
僕の描いた物語がまた一つ幕を閉じる。
僕は左肩の『ファイル』という項目から、描き上げた世界を『名前を付けて保存』する。
さて、これはおしまいのあとのお話。
僕の句点のあとの世界。
いつだって僕は、生まれ来る彼らの幸せを願っているけれど、願いや思いはいつでも叶うばかりのものでは無いらしい。
句点はその形のとおりきっと円環で、僕はいつでもそれで世界を閉じる。
彼や彼女に別れを告げて、
おもちゃ箱の蓋を閉じる様に、
僕はいつでもそこにマルを打つ。
それは世界を閉じる記号。
でも、彼らのその後は、きっとその先にこそ在る。
物語として僕が紡ぎ、君に引き継いだ世界は、きっときっと、そこにこそ在る。
おしまいの
きっと、
そのあとに
『。』