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お蔵出し短編集

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おしまいのあとに


 最後の一打を押下する。
 ぱしっとキーボードが音を立てて、画面の中に表示された文字列におしまいの『。』が打たれる。
 蛍光灯の明かりの下で、僕はじっとノートパソコンの画面に見入る。
 これで、満足か?
 これで、十分か?
 言い足りない言葉は無いか?
 継ぎ損ねた呼吸は無いか?

 ――無い、と思う。
 満足してもいる。
 十分だと、納得している。

 椅子の背もたれにぎいっと背中を反らし、天井を見上げた。
 格子に似た柄の天井はいつものようにそこにある。
 これで、おしまい。
 僕の描いた物語がまた一つ幕を閉じる。

 趣味で文芸創作を始め、小説を書く様になって、そろそろ3年目だ。
 きっかけは今ではなんだかよく覚えていない。
 しかしとにかく最初は気恥ずかしいばかりだった。
 何しろ『小説を書く』と言うことは、ある意味自分の内面の吐露に他ならず、勿論それは美しいばかりのものでは無いためだ。
 つまり、清も濁も等しく自分の中にある思想の源泉だ。
 僕はそれが溢れるまま、キーボードに乗せて文章表現しているに過ぎない。
 その中で『自分はこんなことを考えているのか』と新しい発見があってみたり、逆にいつか思って忘れていた様な古い記憶や感覚が、不意に言葉の形を借りて溢れ出たりもした。
 確かにそれは気恥ずかしい行為だ。
 だけど同時に、たとえようも無く面白くもあった。
 なので僕はそれを続けている。
『飽きもせずに』と思いはするが、そもそもが趣味の世界なのだから仕方が無い。

 六畳一間のワンルームで、僕は壁掛け時計に目をやる。
 時間はそろそろ午後10時になろうという頃だ。
 眉間を指でつまんで軽くもんでみる。
 いわゆる眼精疲労だろうか?指の動きに合わせて引かれる目の奥が少し痛い。
「それにしてもさ」
 ふと、僕の右後ろから太い声が聞こえた。
「何だよ」
 と、だから僕は応じた。
「もう少しおれの扱いで、丁寧なことには出来なかったのか?」
 不満げな声音に面倒くさいものを感じながら、僕は首を傾げる。
 そこに立っていたのは額に白んだ古い刀傷のある、褐色の肌をした男だった。
「まあ、そう言うなよ。あれが僕の精一杯だったんだ」
 やる気の無い僕の返事に、男が鼻をふんと鳴らす。
「精一杯の結果があれじゃ、おれも報われないな。腕一本の代償が『いっとき眺めるささやかな景観』なのか?」
 男はそう続けた。
 だけど、僕には分かっている。
「そうだ」
 だからそう答えた。
 その『そうだ』はひとことだが、万感のひとことだ。
 つまりは『分かっているんだろう?』と僕は言葉も無く男に尋ねる。
 すると男は『そうともさ』といわんばかりの困った様な微笑みをその顔に浮かべた。
「わかんない男ね、アンタも」
 僕の思惑を引き取ってそう続ける声が、今度は僕の左の背後から聞こえた。
 そこにはヘッドと敷きっぱなしの布団がある。
 見ては居ないが、これも想像がつく。
 そこに腰掛けてぷらぷらと足を揺らしているのはきっと彼女だ。
「どっちがだよ」
 と褐色の肌の男が呟いた。
 口をとがらせているのだろうな、と僕にはありありとその表情が想像できる。
「眺めに満足してたじゃない。アタシには分かってる。だって、アンタのあのときの顔っていったら!」
 そういう彼女の声音は心底楽しそうだ。
「うるせえな」
 応じる彼の声には棘と同時に照れがある。
 そう、彼は究極的にはきっと、報われている。
 片腕をそぎ落とされる不運に見舞われながらも、ついに目的の地にたどり着くことが出来たし、望んだ景観をひとときその眼に焼き付けることが出来たためだ。
「よしよし、アンタもそう思うわよね?」
 そして彼女の声が優しくそう続く。
 はっはと彼女の膝の上で息をつくのはコリーの子犬だったアイツなんだろう。
 僕がそう思うと同時に、そいつが軽快な鳴き声を歯切れ良くひとつだけ上げた。
「でも、ぼくは不満だ」
 その声は僕の真後ろから聞こえた。
 昏いその声音にも、僕にはおぼえが勿論ある。
「そりゃ仕方ないだろう?君は野心家なんだから、こうした物語じゃ滅びるのが道理だ」
 僕はだから、からかい半分でそう答えた。
「しかし、たまには良いんじゃないか?だって『悪の華』って言葉がある。ぼくはそういうものになれるんじゃないかって半ばまでは自分のことそう思っていたんだ」
 彼の声は食い下がる。
「次に期待してくれよ」
 僕はやれやれと言った調子でそう答えた。
「次なんて無いくせに」
 彼は皮肉っぽくそう言った。
 僕は微笑んで、頷いた。
「違いない」

 だって、

「性格悪いぞ」

 それは仕方がない。

 何しろ、

「仕方ないだろう?だって、僕は――君たちの親で作者だ。僕の性格が悪いんだとしたら、きっと君に似てるのさ」

 彼らの物語は既に――僕の中で、完結しているのだから。

 僕の右肩にそっと手が置かれた。
 力強く節くれ立った手だ。
 それはきっと片腕を無くした彼の手で、僕の中でひ弱な姿から特を経て筆の進みとともに逞しく成長していった。
 その姿を見るのは楽しかった。
 僕は彼に苦難も与えた。
 だけど彼はどうにか乗り越えた。
 それこそ、僕自身が想像もしていなかった様な手段や方法を以てして、だ。
 僕はだから感心した。
 僕の中から生まれ出でて、しばしそこにあった彼という存在に。
 いつだって僕の想像すらも超えてきた、彼の内にある知恵と勇気に。

 そう思っていると、左肩にもまた、手が添えられた。
 細く不満げな感じに掴んでくるその手には、しかしどこか逆説的にいたずらめいた雰囲気を感じる。
 彼も決して根っからの悪人では無く、目的と手段をはき違えた結果、自分を見失って暴走したに過ぎない哀れな存在なのだ。
 そして実は彼自身がいちばんそのことをよく分かっている。
 だから彼には、そんな自分自身のあり方が誰よりも歯がゆいのだろうと思う。
 結果彼は財産を失い、愛する女性を手に入れ損ね、苦悩と絶望の淵でその命すらを落とした。
 そこに救いがあったとするならば、それはきっと彼のために流された彼女のひと筋の涙だ。
 だがそれすらも、彼は存命のうちに目にすることは適わなかった。

 足下にまとわりついてくるのは、きっとアイツだ。
 くうんと小さく鳴き声を上げて、甘える様に足と足の間を八の字を描く様にてくてく歩き回っている。
 実は僕はこいつのことがかなりお気に入りだった。
 しゃべることが出来ない存在は、逆にその行動が言いがたく雄弁な瞬間がある。
 谷を飛び越えるときのこいつは相当に僕の気を揉ませた。
 飛べるのか?と本気で心配したものだが、こいつはなんとやってのけた。
 実は片足の腱が切れかけていたにもかかわらず、向こう見ずなまま谷を飛び、さらにひた走った。
 肉も弾け千切れんばかりの勢いで走りに走って、ついにそこにたどり着いたときには、僕は内心で快哉を上げたものだ。

 そして彼女がそっと、背後から僕の首の周りに腕を回した。
 ほんのりと柑橘系の香りが鼻を突く。
 刺激的だが嫌みでは無く、砂漠の華を思わせる香りだ。
 彼女には――ほんとうに申し訳なかった。
作品名:お蔵出し短編集 作家名:匿川 名