お蔵出し短編集
次の日、空は晴れ渡った。
五月の、天井が高くて、外洋のように青い空だった。
静かで、冷たくて、
そして、
彼はその日学校に来なかった。
いや、
彼と彼の母親は消えてしまった。
彼の家にあった一台の黒い軽四自動車が姿を消し、彼と彼の母親はそれ以来姿を見せなくなった。
私の中にもやもやと沸き起こったのは言い難い黒雲のような不安と切なさだったが、私にはその理由は分からなかった。
それから一ヶ月ほどしたところで制服を着た警察官が、誰か見知らぬ中年の男と彼の家に入ろうとしているところを見かけた。
それは偶然のことで、私が家に帰ろうとしたときに、荒れ始めた観葉植物などが家人の帰りを待つお隣の玄関に連れだって見慣れない人がいたから、なんとなく眼を引いたのだ。
中年の男は不器用な手つきで玄関の鍵を開けようとしていて、警察官はその横で黙って視線でそれを促していた。
かちゃりと音を立てて開いた扉の奥から、滞った空気が外側へ向け流れ出すとき、
「うわ」
と言う声が聞こえた。
私はそれを聞いてから、黙って足早に自分の家へと戻った。
灰色の障気が流れ出しそうなそこからは、識るべきではない何かがにじみ出しているようで、きっと私はこのときも半ば反射的に心の眼を塞ぎ、耳を閉ざそうとしたのだろう。
彼が目指した灰色の天国には、どんな人がいるのだろう。
真っ白な心の人じゃないことは確かだ。
だってそんな人ならきっと真っ白な雲の上の真っ白な天国で、ふわふわと浮かんで漂っているに違いないからだ。
彼はどんな人に会いたかったのだろう。
彼は、どんな人を見下ろしてみたかったのだろう。
なんとなく、私はそんなことを思い、自分の家に入る前に、一度お隣である彼の家の方を振り返った。
すると、開け放たれたドアの向こうからさっきの中年男が駆けだしてきて、おいおいと涙にむせびながら玄関にしゃがみ込むと、そのままの勢いで激しく嘔吐した。
私は塔に登る約束をした。
彼とその約束をした。
灰色の天国にいる人の中で、私は誰に会いたいのかと自問して、
なぜか照れ笑う彼の姿を思い浮かべて、
急に腰に力が入らなくなったのでその場にへたり込むと、
理由も分からないままにさめざめと泣き出してしまった。
<了>