お蔵出し短編集
だから、僕は答えた。
『は』
電話の向こうで男の声がただ1文字を発して、固まった。
「くださいって言ったんです。注文するんです。水道水を。ごくごく飲める1.5リッター、3セット。都合4.5リッターですかね?私、計算間違えていませんよね?」
僕の声に、電話の向こうが静まった。
「どうしました?」
だから僕は尋ね返した。
男は返事をせず、受話器の向こうは静かなままだ。
会場の音すら静まって、僕はそれを確かめながら、続けた。
「ああ、そうか。注文するとは言いましたけど、どこに配送すればいいのか分かりませんよね。住所と名前と電話番号で良いですか?ああ、そうだ、これがそもそも電話だから私の番号はもう分かりますよね?それなら、今から住所と名前を言いますよ?」
『え、あの、その』
僕の言葉に、男のテンションが急に下がった。
まるでその声は普通のその辺にいるなんの変哲もない男のようだった。
でも、僕はそんなことは気にしない。
気にする必要もない。
「ああ、分かりました。郵便番号から必要なんですね。それであればお伝えします。私の郵便番号と住所は―――」
そして僕は自分の郵便番号から住所を、間違いの無いようにアパート名から部屋番号、挙げ句配送のヒトのためにと近所の目印になる建物まで告げて、とどめに言った。
「さて、以上ですが、もちろん私も分かっています。通信販売にはクーリングオフがないんですよね?だから、私はこの水道水を返品しません。なので、私の家の水道水をきっかり4.5リッター引き取って下さい。代金は着払いを希望します。それでは、届くのをお待ちしております」
そして僕は、電話を切った。
なぜだろうか、僕はえらく清々しかった。
今の電話が何であれ、なんだか久しぶりに自分で何かを選んだ気がする。
ポケットの中に携帯電話を収めながら、僕は背筋を伸ばして街に歩き出した。
誰かの目がまた僕に絡んでくるような気がしたが、不思議と僕にはさっきほど、この電話を受ける前ほどにはそれらが気にならなくなっていた。
だって人の噂も七十五日。
それが過ぎてその頃僕が芸能人でいるかどうかも別にして、とりあえず今現在ここで悩み続けていたって、有名税も税の一環である以上、きっと僕の都合でそいつを減額などしてはもらえないのだ。