朔の海に散るは生也
艦橋から喝采が上がった。ざまを見ろと叫ぶ誰かに、しかし叱責が飛ぶ。まだ、油断はできない。
水路に入る。進路を遮る暗礁に操舵手が神経を研ぎ澄ます。敵は、追ってこなかった。
敵艦隊は水路入り口に落とされた機雷の影響、そして入り組んだ地形による座礁を避けるため、思惑通り島を迂回し始めた。
ほっとみなが安堵する。常なら油断するなと怒鳴りつける司令も、今回ばかりはその限りではなかったらしい。
「作戦の第一段階は成功か。島の西岸に出たら北上する。敵艦との再遭遇地点の予測は?」
「このまま当初の予測どおり敵艦隊が動いてくれれば、機雷原の北側にて迎え撃つことが可能です。そこで、全砲塔を敵艦隊先頭に向けて発射いたします」
司令と頷き合う。島影から、敵艦の姿が見えたところで、勝負は決するだろう。
島の西岸を北上する。砲手が砲塔で手に汗を握り、島影の先に敵艦隊の姿を捉えようとするだろう。
島影が途切れる。右舷に海原に広がる。その向こうにあったのは、機雷原に気づき、進路を変えようとした敵艦隊の先頭艦だった。
「目標、敵艦隊一番艦! 全砲門撃て!」
全艦隊の砲門が火を吹いた。爆音が珊瑚礁群の中に轟き、数多の砲弾が雨霰のように敵艦隊に降り注ぐ。敵先頭艦の砲塔が吹き飛び、司令塔に火柱が上がる。船が目の前で軋みを上げて真っ二つに折れ、海の中に沈んでいった。海中に投げ出された兵士たちの姿が肉眼でもはっきりとわかった。生きながら焼かれ、海に沈んで行くその断末魔が、こちらにまで聞こえてきそうなほどであった。
後続も弾幕の雨に耐えきれずに一隻二隻と沈んでいく。沈む船を避けようとしたのか、それとも砲撃によって舵を損傷したのか、機雷原に自ら突き進み、自滅する船も出る始末。
目の前で繰り広げられる光景に、逆に味方の乗組員の表情からは絶望が消え、興奮と歓喜の色が埋め尽くしていった。
敵艦隊の船はもはや残りわずか。誰もが劇的な勝利を確信していた。生き延びることも難しいと思われた状況から、打って変わって大勝利を勝ち取った英雄として港で迎えられる光景を誰もが思い描いたことだろう。だがその時だった。
「敵戦艦一隻がこちらに向かってきます!」
「なんだこれは、すごい勢いです! まさか、突っ込む気か!」
残り一隻となった船が急遽回頭を中止して味方艦に猛スピードで突っ込んできた。艦橋が騒然とした。
島影を出た時点で敵味方の距離は肉薄していた。自殺のような衝角突撃でも、沈む前にこちらに到達する可能性は十分にあり得た。
「回避!」
「ダメです、間に合いません!」
回避が間に合わない。味方艦の砲撃がその船を狙い撃つ。しかしあと一撃が足りない。複数の爆発を巻き起こしながら、敵戦艦の船首が右舷に突っ込んで来る。
「衝撃に備えろ!」
その直後、今までにない衝撃がこの船を襲った。甲板にいた多くのものが海に投げ出され、艦橋のガラスは全て吹っ飛んだ。艦内にいた者は皆床に壁に叩きつけられ、自分の身を制御することなど不可能だった。
私自身、意識がもうろうとした。誰かが全員退避しろと叫んでいるのが聞こえた気がしたが、よく覚えていない。誰かに支えられて艦橋から出たような気がする。だが、そこで船体が大きく傾き、前部と後部に真っ二つに折れ、海に向かって落ちていくのを、私は見た気がした。
浮遊感の直後に全身を打つ衝撃が襲った。水が押し寄せる。水に包まれ、体が沈んでいく。とっさにもがかなければと手足をバタつかせてみても体は重かった。上から鉄の塊が自分の上に落ちかかって来るのが見えた。
何がどうなっているのかわからなかった。四方を鉄の塊と海水に覆われていた。開け放たれたハッチと引き裂かれた鉄板。けれど、どこを見ても水面が見えない。息が詰まる。水が肺の中に押し寄せてくる。
酸素を絶たれ、私はもがき苦しんだ。自分はここで死ぬのだと、そのときふと、脳裏によぎった。やっと死ねるのだと、ほんの少し歓びが胸に湧いた。自分は、死にたかった。戦場で死んでいった者たちを追って、同じように戦場での死を迎えたかった。そのために自分はこれまで生きて、世界を旅して、この地にたどり着いたのではなかったか。
けれど同時に、少し寂しくも感じた。眼に浮かぶのは、金色の髪と朗らかな笑顔だった。彼と別れてしまうのは、心が痛んだ。
今、彼はどこにいるのだろう。傷を負っていた。それでもするべきだと心に決めたなら、無茶なことも平気でする彼だった。仲間を助けるために海に飛び込んでしまいかねない。無事に生き延びてくれればいい。心からそう願いつつ、それでも最後に一目会いたさに、涙がこぼれた。
だがその時。薄れゆく意識の中で今まさに思い描いていた金色の髪が、視界に映った気がした。幻覚だと思った。それでもよかった。私は私を抱きしめようとするそのたくましい体にしがみつき、口元に寄せられた唇に、無意識に口付けていた。彼が、目の前で笑った気がした。なぜ笑うのかわからなかった。けれど、そのいつもと同じ気の抜けた無邪気な笑みに、私はそんな時でも心の底から、心地よさと幸福感を味わっていた。
彼が私の手を引いた。揺らめく白と赤の筋に包まれる。彼の腕に抱きしめられて、海の流れに身を任せて、私は目を閉じた。このまま彼の腕の中で息絶えるのも悪くない。そんな風に、思っていた。
「サクヤ大尉、しっかりしてください!」
意識が引き戻されたのはどれほど経ってからだったのだろうか。白い砂浜に打ち上げられた視界に、さんさんと輝く光が広がった。
眩しさに目を細めれば、どこかで見たような姿が目に入る。意識が戻った私の様子に安堵するのか、ほっと息をつく音が聞こえた。
「あなたは確か、ミューゼル少尉と見張りに立っていた……」
甲板ですれ違った時のことを思い出した。彼を支えていた兵が、確か目の前の相手だった気がする。しかし、彼の名前を出せばはっとしたように俯いて、その兵は軍医を呼んでくると駆け去ってしまった。
私は一人取り残された。しかし私は生きているらしかった。未だ混乱する意識の中でも周りの喧騒は耳に届く。旗艦が敵艦の決死の突撃を受けて転覆、沈没した。しかし島の近くであったことが幸いしたのだろう。周りを見れば無事生き延びたらしい乗組員が次々と救助されている。敵艦隊の生き残りらしい南方の軍服を着たものたちも拘束されているのが見えた。
「死に損ねたのね」
身を起こそうとしたものの、身体中に激痛が走ってまともに身動きなどできなかった。ただ、腕を上げようとして右腕に痛みではない違和感を覚えた。痛みに耐え、首を巡らせてそこに血の気の失せた人間の腕が視界に入って、ぞくりと背筋に嫌な寒気が走った。
私の腕を誰かの腕がつかんでいた。それは青く痕が残るほどで、けれどその腕の先には白い布が覆いかぶされていた。
あれほどの衝撃で沈没したのだ。死者がいない方がおかしい。だがこれは。この腕はまさか。意識を失う直前に見たものが夢や幻であることを私は祈った。けれど確かめずにはいられなかった。恐る恐る、私はその布をめくり上げた。