朔の海に散るは生也
どす黒く血の滲んだ包帯の隙間から、金色の髪がこぼれていた。血の気の失せた白い顔は、けれど満足そうに安らいだ、何時もの彼の笑顔だった。
「ああ、また、私は……」
彼を連れて帰ると誓ったはずだった。彼とともに軍をやめて、彼の田舎で二人で暮らすはずだった。それはきっと、穏やかでのんびりとしていて、ささやかだが幸せであるはずだった。
故郷を失い、当てもなく旅を始めて、そんな中でも失ったものを埋めてくれるような、そんな存在と出会うことができたのだと思った。失った過去を忘れて、これから作り上げる未来に思いを馳せることもできるのだと、それが無邪気な彼の夢想だと、笑いながらも自分だって心の底では淡い期待を抱いていたはずだったのに。
救うことができなかった。何もかも失った時のように、大切なものほど守ることができなかった。
またしても、自分一人だけが生き延びた。自分だけが生き残ったとして、何になるというのか。大切なものを失って、虚しさだけを抱いて、生き延びて、一体なんになる。
「大尉の応急処置が終わったら、ミューゼル少尉の遺体に、処理を施しても?」
いつの間にか、傍らに衛生兵が一人、立っていた。私が戸惑っているのを見ると、その兵は手際良く私に応急処置を施して、彼の傍らに膝を着いた。
彼の体に処理、というのは、防腐処理のことなのだと、衛生兵の作業を見て理解した。南の海は北にくらべて冬でもやはり暖かく、損傷が進むのも早い。
まだ若いだろう衛生兵は、傍らでもくもくと作業を進める。清められていくその姿を見ていると、彼がただ眠っているだけのようにすら思えた。けれど、同時にその作業を見ることで、逆に彼が確かに死んでしまったのだということも、実感した。拭き清められた彼は、まるで作り物のように美しく、動くことがなかった。
「最期は綺麗に送ってあげたいですから」
無表情ながらも、処理を施してくれた衛生兵が、去り際にポツリとつぶやくようにして、去って行く。
その言葉がその時の私の心に突き刺さるように、耳に残った。
私は彼の姿を見ていた。周りが忙しなく動き回っていて、自分も動くことができるようになれば、先に立って指揮をしなければいけないことは、わかっていた。けれど私はその場から動くことができなかった。彼の手の痕がくっきりと残る自分の腕を握りしめながら、いつまでもいつまでも私はそこで、彼を見つめていた。
「サクヤ、いつまでそうしてるつもりだ」
名前を呼ばれて振り返った。自身も満身創痍ながらも、普段ろくに身につけもしない軍服と軍帽をきちりと身につけて、杖をつきながらこちらに歩いてくる司令の姿が見えた。
「死んだのはミューゼルだけじゃないぞ」
厳しくたしなめる言葉が胸に突き刺さる。自分が感傷に浸っているのでは示しがつかない。それはよく、わかっている。けれど、体が動かない。
苛立つように、司令の足が荒々しく近づいてくる。胸ぐらを掴み上げられ、無理矢理に引きずり起こされた。
「立ち止まるな。立ち止まれば、動けなくなる。お前の役目はなんだ。俺は言ったはずだぞ。そいつもちゃんと連れて帰してやれ。それがお前の役目だ」
投げ捨てられるように手を離されて、尻餅をついてはっとした。
生き延びた者には役割がある。たとえ生き延びたことが意味のない存在だとしても、生きている限りはやらなくてはいけないことがある。自分という存在に意味などなくても、死んでしまった者たちには帰りを待つものがいたはずだ。彼らを、彼らを待つものたちの元へ帰してやらなければいけない。まだ、ここは彼の故郷ではないのである。彼をここで打ち捨てていく訳にはいかない。
「任務はまだ終わってはいないんですね」
私は、傍らに置き去りにされた彼の軍帽を手にした。彼はそれをかぶる時、いつもおどけたように笑って見せていた。
「どれほど残酷だろうと、私は、約束したんです。船を無事帰して見せる、と」
前は、誰も連れて帰ることなどできなかった。今は、少なくとも戦闘を勝利して、皆で港に帰ることができる。
最期に見たのが彼の笑った姿でよかったと、その時私は心から思った。どんな姿を思い出そうとしても、苦痛にゆがむ彼の姿を思い描きたくはない。
私は立ち上がり、司令の前でにこりと笑みを浮かべてみせて、敬礼をする。彼の遺体に背を向けて、彼のために歩き出す。彼を故郷へ送り届け、皆を港に連れ帰って、戦勝の凱旋をする。それが今の自分の役割。その自分の役割を果たすために、前に進む。
私は、失ったものを悔やんではいけなかった。立ち止まってはいけなかった。それはすでに亡い彼らへの冒涜のように思えた。息絶えたものたちの思いは、立ち止まってしまったなら誰も伝えることができない。まだこれからを生きることのできる者の未来は、潰されるべきではない。
一発の銃弾が、二つの国の在り方を大きく歪めたのはそれからそう長くはかからなかった。激化する戦いは私を軍から引き離さなかった。だが私は生きていた。今度こそ死ぬためではなく、生きて私は、再び戦いに身を投じた。未来を失ったもの達も夢見たはずの世界を、今度は私が支え、形作るその一人にならなければいけない。それを自分の役割であると自分自身に課し、私は戦った。