奴隷
最後にひときわ強くののしって、女は激しくせき込んだ。ヴァシルを蔑むように突きつけられた指先が、ぐらりと揺らぐ。
女は石の床に倒れ込んだ。
見てわかるほどに、肌が赤く染まっている。
おそるおそる、ヴァシルはその女に触れた。やけどをしそうなほどに高ぶった熱に反射的に手を引いてしまう。
女は動かない。
しかし、荒い呼吸を繰り返す。
「エスティ、レード……?」
ヴァシルは女の名を呼んでいた。奴隷番号でもなく、昨日、気がつけば脳裏にまざまざと刻み込まれていた女の名。
しかしそれにすら、反応はない。
「誰か……」
ヴァシルは扉の外にいるだろう奴隷を求めた。
「誰か、この女を上へ……! 急ぎなさい、医者を、医者を呼ぶんです!」
絶叫に近い叫び声を、ヴァシルは上げながら牢の外へ飛び出した。
急激な不安がこみ上げた。
訳の分からない不安だった。
苛立ちと、不安と、それから恐れのようなもの。エスティレードを失うかもしれないという恐怖が、ヴァシルを突き動かした。
奴隷を医者に見せるなど、ガルグにおいてはあるまじきことだった。しかしヴァシルはエスティレードを医者に診せた。それも、待遇は奴隷と言うよりは人間の、幹部並の待遇であったと言ってもいい。
その日から、エスティレードはガルグの商品でなくなったことは間違いなかった。扱いは、ヴァシル個人が所有する、愛玩奴隷。それも、ヴァシルの執務室のすぐ脇に部屋と専属の奴隷までが与えられ、彼女はそこで生活することを許された。
衣服もみすぼらしいものではなく上等のものを与えられ、清潔に身を清め、髪を丁寧にくしづけられて、本来の美しさをより一層際だてさせた。
ヴァシルは、ことあるごとに、エスティレードと共にあることを望んだ。
エスティレードは問わなかった。なぜ自分がこんな扱いを受けるのか。
ヴァシルは彼女にあらゆることを訪ねた。
なぜ、ザフォルは死んだのか。なぜ、ザフォルは女奴隷などを妻に望んだのか。
なぜ、ザフォルはヴァシルを憎んだのか。
なぜ、ザフォルが死んで自分はこんなにも不安なのか。なぜ、飢えが消えてくれないのか。
寂しいとは何か。愛しいとは何か。
エスティレードは何も答えなかった。ただ、突き放すように、彼女は言った。
「貴様は奴隷ではないのだろう。ならば、自分で考えろ」
ヴァシルは考えた。考えて、しかしどこまで行っても答えなどみつからなかった。やがて抜け出すことのできない思考の迷路にはまりこみ、そしてヴァシルを憔悴させた。
エスティレードはそんなヴァシルに問いかけた。
「わからないというおまえが、ならばわかっていることは、なんだ」
ヴァシルは答えた。
寂しいのだと。
ザフォルは唯一の肉親だった。それだけでなく、唯一の反抗者だった。ヴァシルと唯一対等に言葉を交わせる相手だった。
ヴァシルにとって、ザフォルはなくてはならない存在だった。
そして、そんな彼を死に追いやったのは、おそらく自分であるのだと。
「それだけわかっていれば上等だ。悔いるなら償えばいい。自分の愚かさを認め、償え」
その言葉は、それまでヴァシルの中に生まれていた空洞に、すんなりとしみこむように広がった。その言葉がヴァシルを満たし、生きる糧を与えた。
それからは、さらに増してヴァシルはエスティレードの部屋に入り浸るようになった。
気がつけば、彼女なしの生活など、考えられなくなっていた。
それはエスティレードとヴァシルが共に生活を始めて、数カ月が過ぎた頃のことだった。
ヴァシルが国外での取引で一月ほど館を留守にすることとなった。さすがに、エスティレードを取引の先まで連れて行くわけにもいかなかった。
「ステイ、一月で帰りますから、ちゃんと待っていてくださいね。ほかの奴隷と浮気なんてしたら、相手の男根を切り刻んで捨ててやりますから、絶対に、駄目ですよ?」
エスティレードを愛称のステイと呼び、にこりと笑む。エスティレードはそんなヴァシルに呆れたようにため息をつき、さっさと行けと手を閃かせる。
しかしそんな中で、うっと、彼女は口元を押さえた。
「ステイ、どうしたんです? 気分でも?」
うずくまりかけたエスティレードに、馬車に乗りかけたヴァシルが思わずタラップを降りる。
「なんでもない。朝飯を食べ過ぎただけだ。さっさと行け」
「まったく、貴方大食らいすぎるからそうなるんですよ。私の倍以上食べますものね。あんまり食いしん坊だと、その口、縫いつけてしまいますよ?」
冗談にも聞こえない口調で軽口をたたくヴァシルに、エスティレードはそのとき珍しく微笑んでみせた。
それからヴァシルは一月あまり国外を旅し、商談を重ねて帰還した。
主の帰還に慌ただしく出迎えの奴隷たちが現れる。しかし、その中で唯一、ヴァシルが姿を求めた奴隷は、出迎えに出てくることはなかった。
「ステイはどうしたんですか? あんまり私の帰りが遅いから、本当に浮気しているんじゃないでしょうね? もしそうならさすがにステイでもお仕置きしなきゃいけませんよ。何がいいですかね。彼女はやっぱり美しいから、ああ、あれもいいかもしれない」
と、服でも選ぶような気安さで、あれこれと仕置きの中身を考えながら、エスティレードの部屋へと向かう。
しかし、そこになら居るだろうと踏んだ彼女の姿はそこにもいない。
「ステイ? どこに行ってしまったんです?」
部屋の隅々を探して、しかしどこかに隠れているわけでもないと気がつけば、小首を傾げて、ヴァシルは留守を任せていた筆頭執事を振り返った。
「ステイはどこに行ったんですか? 部屋からはなるべく出さないようにと言っておいたはずですけど?」
「エスティレード様はいらっしゃいません」
「そんなことは見ればわかります。だからどこにいるのかと聞いているんです」
「どこにも、いらっしゃいません」
無表情な奴隷の執事が言う言葉に、ヴァシルは首を傾げる。
「先日、お亡くなりになられました」
「亡くなっ、た……?」
執事の鉄面皮とは対照的に、ヴァシルの表情が歪む。
「何を言っているんです? ステイはどこです!?」
「事実を申し上げているだけにございます。死体は既に地下の穴蔵に放り込みました」
ヴァシルは駆けだした。地下のさらに奥深くに、駆けだした。
「なぜ、ステイがあんなところに放り込まれなければいけないんです。すぐに引き上げて、助け出さなければ彼女が死んでしまう!」
地下の穴蔵。ガルグの館で死んだ奴隷たちが放り込まれる処分場。常に腐臭漂うそんなところに彼女がいたら、さすがの彼女でも気が狂ってしまう。
ヴァシルは穴蔵の入り口にたどり着き、下に降りるための梯子かロープを探した。しかしそんなものはこの場所にはなく、ヴァシルは数メートルはある縦穴に生身で飛び込もうとした。
「ヴァシル様、お待ちください。彼女はもう既に死んでいるんですよ! 半月前、腹の中の赤子が流れて、それがもとで、お亡くなりになりました!」
後ろから執事が、飛び込もうとしたヴァシルを羽交い締めにした。
「嘘です! 何を言ってるんですか?! そこにいるじゃありませんか! ほら、そこで私に助けを求めて手を伸ばしてる……!」