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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 7.小雪の章 花吹雪 (最終話)

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                 ***

 島田弦楽器工房に新しいベースを受け取りに行くその日、紗弥は朝から浮かれていた。

 鼻歌まで歌うなんて不気味だ、と思いながら靴をはいていると、携帯電話の着信音が鳴った。あわててポシェットを探るが、小雪ではなく紗弥の方らしい。

 いつもなら会話を聞かれるのを嫌がって自室に引きこもる彼女が、朗らかに笑いながら何やら話している。

 どうやら五月にある武の結婚式でのバンドの話をしているらしく、いやでも耳が大きくなってしまう。

 聞いたって仕方がない――そう思いながらハイカットスニーカーのひもを締め上げた。
 ベースを運んでいる途中でほどけたら困るので、いつもよりきつめに結んでおく。

「じゃあ行ってきます」

 通話中の紗弥に声をかけると、彼女はこちらに視線を投げかけた。何故か口元に不敵な笑みが浮かんでいる。

 紗弥でも春の陽気で浮かれることもあるのだ、と感心していると、紗弥はわざとらしく携帯電話から口を離していった。

「へーえ、破談したんだ。じゃあライブ名は『武くんフラれました会』に決定ねー」

 玄関扉に手をかけた小雪は、動きを止めた。紗弥の言葉が、うまく処理できない。

 破談――のあとに続くライブ名が、頭の中で渦を巻いていく。

「フラれました……会?」

 玄関の引き戸を見つめたまま呆然としていると、紗弥の軽い足取りが聞こえてきた。

 ふりかえると、彼女は二階に上がろうとしていた。小雪はあわてて上り框に足をかけたが、スニーカーのひもをきつく縛ってしまったことに気づいて踏みとどまる。

 紗弥は待ってましたとばかりに首をひねって、口の端を持ち上げた。

「あのバカ、フラれちゃって結婚式取りやめになったんだって。せっかく立ち上げたビッグバンドを解散するのももったいないから、同じ日にライブでもやろうって話になってるの。あー楽しみ。あんたも来る?」

 携帯電話の画面をこちらにむけながら、紗弥は言った。どうやら仲間うちで話が進んでいるらしく、メッセージの画面は様々な画像で彩られていた。

 小雪はとっさに首をふった。答えは「ノー」だ。今更参加してどうする――と思うと同時に、心臓は激しく胸を打ちつけた。心地よい痛みが脳内をめぐっていく。
 また紗弥の携帯電話が鳴る。彼女は画面を操作しながら言った。

「あらそう? 新しいベースもお披露目できてちょうどいいんじゃない。あの男に遠慮することなんか、ぜーんぜんないのよ」
「もうちょっと手になじんでから、人前で弾きたいから」
「あんたってそういうとこ律儀よねえ。もっとゆるく生きなさいよ」

 そう言って階段を登り始めたので、彼女の背中にむかって「紗弥ちゃんに言われたくない」とつぶやいた。心の中で言ったはずだったのに、見透かしたかのように紗弥はくるりとふりむいた。

 銀縁眼鏡の奥にある瞳が光っている。反撃される前に逃げよう――そう思って小雪は家を飛び出した。

 向かいの敷地から伸びる桜の木は、すっかり花びらを落して葉桜になっている。小さな新緑の葉のむこうに、青い空が見える。

 晴れわたる空の下で、小鳥たちがさえずっている。いずれあの木には赤い実がなり、ますます賑やかになることだろう。

 春の陽気が小雪の頬を暖める。弦楽器工房で待っているアンドレア・イーストマンのベースを思い浮かべるだけで顔がにやけてしまう。

 いつの日か、新しいベースを自在に操れるようになったら――『ブラックバード』に行こうと思った。在学中に運転免許を取って、働きだしたらいずれ車を買おう。そして彼が好きだった曲をいつでも弾けるように練習しておこう――

 雲ひとつない青空に白い月が浮かんでいる。未来は希望に満ちている。

 薄茶色の巻き髪を耳にかけて、小雪は走り出した。

                                (完)