切れない鋏 7.小雪の章 花吹雪 (最終話)
ふとななめうしろを見ると、そこには信洋が座っていた。彼の中に武へのわだかまりがどれくらい残っているか推し量ることはできない。ただ彼はひたすらに綿谷が操るブラシの動きを見つめて、そのプレイを習得しようとしているようだった。
小雪もベーシストに視線を移す。短髪の彼は、今までずっと武のコンボを支え続けてきた。プロプレイヤーではなくベーシストとしても無名だが、小雪は彼の演奏を何度も聞いた。ふり返ってみると、あの時もこの時も、ベースは彼だったと思い当たる。
決して目立たないけれど、武にはなくてはならない存在だったに違いない。いつか武がこの町に戻ってきたとき、いつだって『ブラックバード』に立ち寄って気軽に演奏ができるように――そんなプレイヤーでありたいと小雪は思った。
黒いロングTシャツの袖をまくり上げた武が、トランペットを高々と振りかざす。最後のコーラスだと予感させる激しい応酬がプレイヤー同士で繰り広げられる。
痩せた頬に汗がつたっていく。眉をつり上がらせて高速のフレーズを吹き鳴らす。
観客の熱気を全て吸い上げて音に変えていく。魂を凝縮させたハイノートが天井をつきやぶり、月にまで飛んでいく――
武がトランペットを振りおろすと、大歓声が沸き起こった。
誰もかれもが立ち上がり、武の名前を呼ぶ。どこから取りだしたのか、現役生がクラッカーを鳴らす。一瞬驚いたそぶりを見せた武に、トロンボーンプレイヤーが笑いかける。頬のゆるんだ武が笑い声をあげる。小雪は愛美と顔を合わせ、ひっしになって拍手を送る。綿谷がバスドラムを踏んで歓声に応える。
喧騒はしだいにアンコールの拍子に代わり、プレイヤーたちが何やら話し始める。
すると、短髪のベーシストが小雪に近づいてきた。
何事かと戸惑っていると、彼は有無を言わせず、小雪をステージに引っぱって行った。
うしろから、同じように引っぱられた愛美と信洋がついてくる。ピアニストが愛美を椅子に座らせると、彼女は「え、ちょっと待ってよー顔がー」とあわててかくした。武はすかさず「そんなの誰も見てない」と横やりを入れる。
一同がどっと笑い、愛美が頬を膨らませる。信洋もいつの間にかドラムセットの前に座らされている。
呆然とその様子を見ていると、短髪のベーシストは自分の楽器を引っ込めて、オリエンテのベースを引きずりだしてきた。
普段、あまり表情を変えない彼の口元に笑みが浮かぶ。
即席のコンボをやるつもりなのか――とようやく合点がいく。ベースを受け取りながら武に視線をふると、口元をぬぐいながら小雪を見ていた。
「ハウハイ、やるだろ?」
そう言うと返事も待たずに、彼は観客席の中へ入っていく。今度は何をするつもりなのかと思っていると、最後に引きずりだされたのは彼らの父親、有川晴樹だった。
お調子者のギタリストがいつの間にかステージに来ていて、すかさず晴樹にギターを手渡す。彼は「いや私は」と言って丁重に断ろうとしていたが、現役生たちが「お願いしまーす!」と叫び始め、後に引けない状況になっていった。
晴樹は困ったように顎をさすりながら、息子を見る。仕組んだ張本人はいたずらっぽい笑みを浮かべて「ハ・ウ・ハ・イ」と口を動かす。
強引さに負けたのか、それともジャズメンの血が騒いだのかわからないが、晴樹はチューニングの音を鳴らしながら椅子に座った。
客席から一斉に甲高い声が上がり、武の横顔が満足げに笑った。
信洋のカウントが始まる。憧れ続けた『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』がようやく実現する。
真横に座った晴樹が小雪を見上げる。『ルート66』の演奏を思い出す。あの自由に満ちたFブルースこそ、小雪たちがずっと追い求めてきたものだった。
教えてくれたのは武だった。月に慎一郎がいなくても、私たちはスイングし続ける――
慎一郎のソロを縦糸に、オリジナルのベースラインを横糸に織りながらランニングベースを弾く。過去が今につながって、また新たな絆を結んで生きていく。
興奮は喜びに変わり、喜びは小雪の力となって心の中に満ちていった。
客が引いたのを見計らって、小雪はベースを地上に運んだ。
今夜、このベースを有川家に戻すことになっている。
春の夜風を頬に受けながら車の前で待機していると、武がやってきた。
ヘッドライトを受けて暗闇に浮かぶその立ち姿に、胸がきしむように痛む。
「本当にいいのか?」
「うん。今までほんとにありがとう」
そう言って頭を下げると、武の手のひらが髪を梳いた。うるさいくらいに心臓が鳴り始めるが、息を吸って呼吸を整える。
「ひとつだけ、聞いていいかな?」
「……何?」
長い指が頬に触れる。そのしぐさに心がかき乱されないように瞳に力をこめる。
「もし私が他の楽器をやってたら、このベースは他の人に貸してた?」
小雪の言葉に武は遠い目をしたが、それも束の間のことで、ゆっくりと首を横にふった。
「いや。おまえだけだ」
そう言って微笑んだので、小雪は胸をなでおろした。その言葉だけでもう十分だった。
二人の間をやわらかな春の夜風が吹き抜けていく。静けさを取り戻した街の中に佇んで、このまま時が止まればいいと思った。
武が手を差しだしてきたので、握手に応じた。プレイヤーらしい熱を帯びた手のひらが小雪の心臓を握りしめる。
離すのをためらっていると、愛美がかけよってきた。
「ねえねえ、タケ兄。今夜は家に泊まっていくんでしょ? お母さんがはりきってごちそう作ってたよ。小雪も来るよね?」
当然来るだろうという期待に満ちた瞳がこちらを見てくる。一瞬、婚約者の女性は今夜どう過ごすのだろうということが頭をかすめたが、自分には関係のないことだと一蹴した。
「ううん、今日はもう帰るね」
きっぱりとそう言うと、愛美は目を丸くした。彼女の提案をこんなにすぐ断ったのは初めてかもしれなかった。
けれど愛美は理由を尋ねたりはしてこなかった。
「そっか、終電はまだあるんだっけ?」
「うん、心配しないで」
そう言って笑うと、愛美も笑った。うしろから彼らの両親がやってくる。
有川家の自家用車にベースを積み込み、家族四人がそろって乗車する。
「本当にありがとうございました」
改めて頭を下げると、運転席のサイドガラスが下りた。顔を見せたのは武だった。
「じゃあな」
なんでもない別れのように彼は言った。つい最近まで間近に会ったその笑顔がぼやけていく。鼻の奥が痛くなって、けれど顔は下げたりせずに武を見つめた。
その時、突風が吹き抜けていった。パーキングのそばにたつ桜の大木が揺れて、花びらが舞い上がった。薄い桜の花びらは無数に宙を舞って、夜空を桃色に染めあげる。
武が笑っている。空には黄淡色の月が浮かんでいる。
――さようなら、私のブラックバード。
彼らを見送るように、また風が吹いた。小雪は薄茶色の髪を押さえた。薄桃色の花びらが星のように夜空を彩る。鼓膜の奥でトランペットの音が聞こえている。
決して消えることのないその音色は、花吹雪の中に佇む小雪の心を温かく包んでくれた。
作品名:切れない鋏 7.小雪の章 花吹雪 (最終話) 作家名:わたなべめぐみ