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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 7.小雪の章 花吹雪 (最終話)

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 そう言いながら左手薬指に指輪がはまっているジェスチャーをすると、愛美は少し考えるそぶりを見せたあと、目を見開いた。

「もしかして、話しかけてきた?」
「うん。名前知ってたから、びっくりしちゃった。ジャズのこと教えてほしいって言うから、ちょっと説明したけど」
「ごめんっ!」

 そう言うなり、愛美は頭を下げた。ウェーブのかかった髪から、甘いスタイリング剤の香りが放たれる。

「小雪のこと話したの、私なの。家族で食事したときに、友達とどこに遊びに行くのか聞いてくるから、カフェとか雑貨屋さんとかよく行くって話してるうちに名前出しちゃって、気づいたら……私、小雪のこと好きすぎて、止まらなくなっちゃったの」

 彼女はフレアスカートのすそを握りながら、しどろもどろと話した。自分が紗弥相手に愛美の話をするような感じだったのだろうと思うと、頬がゆるんだ。

「大丈夫だよ、今ギターの子が喜んでフォローしてくれてるから」

 そう言って笑いかけると、愛美は切羽詰まったような形相で両腕をつかんできた。

「ねえ……病院、行ったの?」
「行ったよ」
「結果は?」

 腕を握る愛美の手に力がかかる。そのままにして、小雪は肩の力を抜いていった。

「ただの生理不順だった。吐いたのも、きっとストレスのせいだろうって。お薬もらったから、もう大丈夫」

 ずっと心配をかけていた愛美を安心させたくて、できる限り落ち着いた声でそう言ったのに、彼女の顔はなぜかくしゃくしゃになっていった。

「だめだよ、小雪。大丈夫なんて言っちゃだめだよ。タケ兄の結婚相手に会ったのに大丈夫なんかじゃないよ。悲しいときにそんな顔しちゃだめだよ」

 泣きそうになっている愛美を見ながら、今自分がどんな表情をしているのか、想像すらできなかった。ただもう心ははち切れそうなほど膨らんでいて、何か言葉を口にした途端に、黒々とした気持ちが決壊しそうだった。

「タケ兄もシン兄も小雪を傷つけてばっかりでごめんね。バカ兄ばっかりでごめんね?」

 そう言いながら、下がった目じりから次々と涙がこぼれ落ちる。せっかく化粧直しをしたのに、涙はまた頬をつたって足元のタイルを限りなく濡らす。

「シン兄が生きてたらよかったのに。そしたらタケ兄はプロになって大好きなトランペット吹けたのに。あんな人と結婚しなくてよかったのに。小雪だって幸せになれたのに」

 愛美の表情が見る間に崩れていく。いつでも前向きだった彼女の口から、弱音がボロボロとこぼれ落ちていく。

「ちょっ…と、マナ、大丈夫?」

 愛美の足の力が抜け始めたので、小雪はあわてて体を支えた。大きな瞳を真っ赤にして鼻水をすすり上げながら、小雪を見上げてくる。マスカラはすっかりはげ落ちて、やわらかな頬に黒い跡を作っていた。

「なんで勝手に死んじゃうのよお」

 愛美がその場に崩れ落ちた。小雪の力では支えきれず、一緒になってへたりこんでしまった。どうして慎一郎は死んでしまったのか――何万回考えても答えの出ない問いかけに、脳が揺さぶられる。震えだした小雪の身体に、愛美がしがみついてきた。

「バカ兄、バカ兄、どうして勝手に遠くに行っちゃうのよ」

 扉の向こうから軽快なトランペットの音色が聞こえてくる。出会った時から色あせないその音色をいつまでも聞いていられるのだと信じて疑わなかった。

 祈るような気持ちで愛美に抱きついた。自分をぎりぎりに縛りつけていた醜い嫉妬や羞恥心が剥がれ落ちていく。

「もうこれ以上、小雪を傷つけたら許さないんだから」

 愛美は人目も気にせずそう声を上げた。途端に小雪の涙腺がゆるんで、視界がぼやけた。
 息ができないくらい胸がつまる。嗚咽がこみ上げてくる。
 二人で抱き合って幼子のように泣きながら、トランペットの音色を聴いた。

 武が奏でる『ムーン・リバー』はどこまでも優しく、二人を包んでくれるようだった。



 泣きはらした顔のまま客席に戻ると、また栗色の髪の彼女が声をかけてきた。

 本番中は客席の照明が落とされているので、目が腫れていることには気づかないらしく、先ほどと変わらない様子で、曲のことを聞いてくる。

 今度はひるまなかった。隣に愛美がいた。特上のスマイルで婚約者の隣を陣取ると、お利口な妹らしく丁寧な解説を始めた。ジャズ歴の長い愛美にとって楽曲の逸話を語るのはお手の物らしく、武の失敗談を織り交ぜながら、婚約者を笑わせた。

 小雪は適当に相槌を打ちながら、クインテットの演奏を聞いていればよかった。

 時おり感じる武の視線が自分に投げかけられているのか、それとも婚約者にむけられているのか判別がつかなかったが、もうどちらでもよかった。

 武は前に進もうとしている。ならば自分が取るべき道はひとつしかない――そう心に決めて、神経を研ぎ澄ませた。彼が奏でようとする音のひとつひとつをつぶさに聞き取って、心の中にしまっていく。そこには慎一郎がいて、武から譲り受けたぜんまいと裁ち鋏がある。誰も踏み入れることのできない自分だけの領域だ。

 最後の曲は『バイ・バイ・ブラックバード』だった。多くの観客がこの曲を期待していたのか、綿谷がブラシに持ち替えただけで歓声が上がった。

 武が軽くトランペットを持ち上げる。もうひとりのフロントであるトロンボーンプレイヤーがスライドを上下させる。
 ピアニストが背筋を伸ばし、ベーシストがゆるりと立つ。綿谷が目配せをする。

 ほうきのようなブラシの先を合わせてカウントが始まる。

 定番のミドルテンポではなく、武好みのファーストテンポでテーマが展開される。

 この店が開店したときと同じ、トランペットとドラムのみの『バイ・バイ・ブラックバード』だ。当時から彼らの事を知っている仲間たちが、指笛を鳴らす。
 事前にどれくらいの取り決めをしているかわからないが、武と綿谷は見事なコール・アンド・レスポンスを繰り返し、観客席をわかせた。

 店内は熱気に包まれ、誰もが高速スイングに乗って体を揺らす。武はあくまでも軽快にメロディを流していく。婚約者と談笑していた愛美が、食い入るようにその姿を見つめる。それは兄への憧憬ではなく、トランぺッター有川武を試すような真剣な眼差しだった。

 武は挑発するように愛美の方へベルを向けてくる。愛美は対峙する。自分だったらこう弾いてやるのにと言わんばかりの顔で、目を見開いている。

 婚約者が何度か話しかけたが、全く耳に届いていないらしく、テーブルの下に収めたフレアスカートの上で見えない鍵盤を叩き続けていた。

 三コーラス目の終盤で待機していたベース、ピアノ、トロンボーンのバッキングが入る。
 最後のフレーズをフロントの二人で吹ききると、ソロはトロンボーンに引き継がれた。

 拍手を浴びて、武が手を上げる。視線が客席の左端を泳いだかと思うと、武は軽く舌を出した。あのしぐさは紗弥に向かってよくやって見せるものだ。二人だけのコール・アンド・レスポンスに気づいて初めて、親友を失う紗弥のさみしさは自分よりもはるかに深いものなのかもしれない、と思った。