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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 7.小雪の章 花吹雪 (最終話)

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 小雪は息を吐きだした。かつてない高揚感が足元からせり上がってくる。

 笑顔の武がトランペットをかざして拍手にこたえる。あちこちから指笛が聞こえる。

 彼は次々とハイタッチを交わしながら、トランペット隊のところへ戻っていく。

 店内の歓声はなりやまない。拍手は次第にアンコールの催促へと変わっていったが、あくまでも前座なのでアンコール曲はやらない方向でいた。
 メンバーの視線がピアノに集まる。やるかどうかを決めるのはバンドマスターである愛美の役目だ。

 ところが彼女は、白いピアノの前に座ったまま、大粒の涙を流していた。

 仲のいい部員たちが「あーまた泣いてるー」とはやし立てるが、ライブ直後の愛美が泣く姿を見るのは初めてだった。

 彼女は「ステージに上がった以上はプロフェッショナルを貫く」ことにこだわっていて、どんなに反省の残る演奏になってしまっても、舞台から降りるまでは感情をあらわにすることはなかった。

 愛美の涙に気づいた観客たちが、手拍子をおさめていく。なんだなんだとみな笑顔だったが、一向に泣き止む気配がない。

 小雪が声をかけようとしたその時、後輩にうながされた武が前に出てきて、愛美のそばに立った。緊張のとけた表情で妹を見下ろす眼差しは優しいものだった。

「ほんっと泣き虫だな、おまえ」

 そう言って愛美の頭に手を乗せると、彼女は堰を切ったように泣き声を上げ始めた。
 トランペットを持ったままの武の胴体にしがみつき、「お兄ちゃんのバカ―」と言ったのを皮切りに、ここぞとばかりに「バカ兄」と叫んでいた。

 様子を見に来た綿谷がすぐそばで笑っている。

 武はというと、「離せよ」と言ってもがくものの無理強いはせず、困ったように笑っていた。観客席の奥に座っている彼らの両親も、朗らかな笑顔を見せていた。
 そのすぐ隣に、紗弥の姿を見つけた。父や母と一緒になって笑っている。

 小雪が目を丸くしていると、客席に座った紗弥と目が合った。眼鏡をはずした涼しい面立ちで片目をつむり、親指を立てた。姉に演奏をほめられるのは一体いつぶりだろうと思うと、愛美の涙が伝染して鼻の奥が痛くなってしまった。



 二十分の休憩時間にビッグバンド用の譜面台や椅子を撤収させて、コンボのセッティングに戻さなければならない。小雪のベースはピアノのうしろに置いておけばいいと綿谷に言われていたので、そっと寝かせておいた。

 涙で化粧がぐしゃぐしゃに崩れた愛美が、満面の笑顔で撤収の指示を出す。

 ひととおり運搬用の車に運び終えると、小雪は息をついた。自分の仕事は終わった。あとは客席に座って、心待ちにしていた武のコンボ演奏を聞くだけだ。

 バンドメンバーに用意された後方の席につくと、すぐ前に座っていた女性がくるりとうしろを向いた。栗色の巻き髪に利発そうな瞳を持ったその女性は、美しい笑みを頬にたたえてこう言った。

「ねえ、あなたが小雪さん?」

 彼女がさらりと投げかけてきた言葉に、小雪は違和感を抱いた。

 この日は武の締めライブということもあり、観客のほとんどが同じ大学の出身者か現役の部員たちだ。コンボに参加するメンバーもほぼ顔見知りだし、この場でこんな疑問を投げかけられるとは思ってもみなかった。

「そう……ですけど」

 愛美のレッスンスクールの知り合いだろうか、と考えていると、彼女は小雪の手を握っていった。

「やっぱり、聞いてた通りだわ。小柄で色が白くって巻き髪が可愛くって、でも弾いてるベースがおっきくて、演奏中は気迫に満ち溢れていてとても素敵だったわ」
「ありがとう……ございます」

 いったい誰から聞いたのかという疑問は湧いたが、どうも褒められているらしく、そう答えた。彼女は瞳に光をためたまま、続けて言った。

「私ね、聞くのは好きなんだけど、ジャズのこと全然詳しくないのよ。今から始まる彼のバンドのこともよくわかってなくて。よかったら私に曲のこととか教えてくれない?」

 細くきれいな指が小雪の手を握っている。喧騒の中でもよく通る鈴のような声。呆然としていた小雪の頭の中に「詳しくない」「彼のバンド」という言葉が響く。

 ジャズの関係者ではない――それにしてはこの場に慣れている気もする。武が招待した客なのだろうか――

 不意に、前回ここで演奏したときのことを思い出した。武が吹く『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』と溶けるようなまなざしで見つめていた栗色の髪の女性――

 脳に衝撃が走る。暴れ出しそうになる心臓をこらえながら、そっと彼女の左手を見た。薬指に華奢な指輪がはめられている。シルバーリングの真ん中に埋められた小さな宝石が、わずかに灯されたステージの照明を浴びて光る。

 武の婚約者――

 そう考えた瞬間、視界に入る景色が色を失った。栗色の髪を持つ彼女の姿だけが鮮明に浮き立って、小雪の目前まで迫ってくる。

 気づかれないように、そっと生唾を飲みこむ。手の震えを悟られないようにさりげなく椅子の横にひっこめる。

「私でよければ」

 それ以外、どう返答すればいいのかわからなかった。
 今から武の演奏が始まる。素知らぬふりをして彼女の要望に応えるしかない。

 小雪の動揺に気づいているものはいない。隣に座ったギタリストが年上の女性に話しかけられて気をよくしたのか、コンボとビッグバンドの違いについて説明を始めた。

 フリューゲルホルンを手にした武がステージに姿を現す。ゆるやかに拍手が起こる。

 武のクインテットが始まる。目を閉じたままの彼は、美しいアンブシュアで息を吹きこみ、『アイ・リメンバー・クリフォード・ブラウン』を奏でる。

 迷いのない背筋がぴんとそそり立ち、慈しむようにピストンを操作する。

 栗色の髪の女性が「あ、この曲は知ってるわ。彼、好きなのよね」とつぶやく。
 愛される幸せに満ちた大人の女性が、小雪のすぐ目の前にいる。

 こんなに待ち望んでいたのに、武の演奏が全く耳に入ってこない。彼女に聞かれるままに、この曲ができた経緯や、作曲者の名前を口にする。

 どうして私はここにいるんだろう――と思った瞬間、どうしようもなく惨めな気持ちが溢れ出してきて、小雪は笑顔を作って席を立った。

 演奏中に店を出るなど本来してはいけないとわかっていても、他に方法がなかった。
 扉を閉めた向こうから、武の優しい演奏が聞こえて、体の芯を溶かしていく。
 涙があふれだして、もう自分の力ではどうすることもできなかった。



 地上では、商店街の中をあわただしく人が行き来している。この流れの中に身をうずめてしまえばいつか全てを忘れられるだろうか、と考える。

 扉の向こうから誰かが押しているのを感じて、もたせかけていた体を動かした。
 姿を見せたのは愛美だった。空いた扉のすき間から拍手が聞こえる。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 下げた眉を見ていると、自分を心配してくれていることが伝わってくる。涙を見られたくなくて、指で目じりをこすり上げた。
 扉が閉まるのを確認して、小雪は呼吸を整えた。

「あの……さ。私の前に座ってた人……タケ兄の婚約者だよね」