Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ
ティリーは自分のカップに残っていた茶を一口飲むと、マフィンを遠慮なく頬張った。満足げにうなずいているあたり、お気に召したらしい。マフィンは見る見るうちに減っていく。一人で全部食べる気なんじゃないかというぐらいの消費スピードを眺めつつ、リゼはカップを取り上げた。
「食べないのか?」
お茶を啜っていると、アルベルトがそう問いかけた。
「甘い物、好きじゃない」
「そうか……すまなかった」
次は君の好きなものにするよとアルベルトは残念そうに言う。別に、皆に対する土産だ。全員の嗜好に合わなくてもおかしくはないし、気にする必要もないだろう。というか、そんな気を使わなくていいのに。そう思いながら、リゼは積まれたマフィンを一つ手に取った。ピンク色のコーティングが施されたやけに可愛らしいマフィンだ。しばしそれを眺めていたリゼは、柔らかいスポンジを一口齧り取った。
甘い。すごく甘い。デコレーションのためか砂糖まみれになっているせいだろう。故郷では甘味と言えば果物ぐらいで砂糖菓子など滅多に食べなかった。だからこういう甘さには慣れていない。とりあえずは、
「……まあ、食べられるわ」
そう言うと、アルベルトは表情を緩めた。そんなに食べてほしかったのだろうか。不思議に思いつつも、リゼはまたマフィンをかじる。食べられなくはない。しかし好みではない甘ったるさが口の中に広がったが、リゼは構わずマフィンを咀嚼した。
無下にするのも悪い、だなんて。そう思いながら。
虹色の光が降り注いでくる。
その温かい光を浴びながら、アルベルトはリゼによる悪魔祓いを静かに見守っていた。
目の前に並んでいるのは、ベッドに力なく横たわった悪魔憑き達。苦痛に呻く彼らは眩い虹色の光に包まれていく。
美しい光だ。リゼの悪魔祓いを見るたび、いつもそう思う。彼女の魂の輝きと同じ、陽光のような温かい光。リゼはそれをいとも簡単に操り、次々に悪魔憑きを救っていく。マラークの神の聖なる光ではなく、ティリーらが使う魔術とも少し違う。光は悪魔憑きに巣食う悪魔を炙り出し、悪魔憑きの身体の外へ弾き飛ばした。
リゼが一言なにかを唱えると、光の帯が弾き出された悪魔へと向かっていった。帯は悪魔を包み込み、眩い光でそれを消滅させる。細かな塵となった悪魔は、耳障りな断末魔だけを残して霧散した。
光が消え、病室の中は何事もなかったかのように静まり返った。ベッドの上の悪魔憑き――女性は、先程までとは裏腹に生気が戻った肌と安らかな表情で、規則正しい寝息を立てている。その姿を確認したリゼは、ふうと息をついた。
「終わったわ」
まるで少し荷を運んだだけとでも言わんばかりの気安さで、リゼはそう言った。今日だけで、たった一人で数十人もの悪魔憑きを癒したとは思えない。そんな彼女に、王太子が賞賛を送った。
「お見事です」
短いながらも畏敬の念を込めていることが窺える口調で、グリフィスはリゼを褒め称える。王太子の隣に控えていた院長は、目の前で起こったこととグリフィスが一介の魔術師に敬意を表したことに卒倒しかねない様子だった。リゼがここで悪魔祓いを初めて数日経つのだが、まだ慣れないらしい。当のリゼは双方の反応を興味なさそうに見やっただけで、グリフィスに返答もせずアルベルトの方へと振り返った。
「これで全員?」
そう問われて、アルベルトは西の方角を見た。そこには壁があるだけで、人間は一人もいない。だが、アルベルトにとって集中すれば、不可視のものを視るのにただ壁の一枚や二枚障害にはならない。視線の先――西側の部屋には、黒い影がいくつか蠢いていた。
「――いや、まだ向こうの部屋に数人いる」
「そう。――そういうことだから、次は向こうに行く」
「分かりました。――案内を」
「は、はい!」
グリフィスに命じられて、院長である小太りの男はちらちらとリゼを見つつ危なっかしい足取りで廊下を進んでいく。そのあとに続いて、アルベルト達も歩を進めた。
リゼが悪魔祓いを始めたのは十日ほど前、魔物退治を終えてザウンに帰還したすぐ後のことだ。メリエ・セラスから動けないと知った彼女の行動は速かった。グリフィスに報告すらしようとせず、悪魔祓いに向かおうとしたのだ。さすがに許可を取った方がいいと引き留めたので、独断で悪魔祓いをすることにはならなかったが。――いや、それどころか、グリフィスに報告したおかげで、悪魔祓いはずっとやりやすくなったくらいだ。何しろ、グリフィスは慰問へ向かう王太子の部下という名目で、メリエ・セラス病院へ行けるように取り計らってくれたのだから。
そもそも、グリフィスは悪魔憑き達への慰問を定期的に行っていたらしい。それもただの慰問ではなく、悪魔憑きの調査も兼ねているようだ。王太子自ら足を運び、悪魔憑きを見舞い、悪魔研究を支援している王太子の国民からの評判は良いらしい。特に、悪魔研究家や退治屋達、病院や“安らぎの家”のような悪魔憑きの収容施設関係者から信頼されているという。おかげで病院に忍び込むようなこともなく、こうして悪魔祓いを行えるようになったのだった。
「さすが病院は悪魔憑きが多いわね」
一通り見て回った後、リゼは軽く伸びをして嘆息した。傷病を負った者はどうしても気が弱くなるもの。悪魔はそこに付け入ってくる。ミガー人もそのことを理解しているのか、病院の壁は悪魔除けの紋様が多数描かれていたし、街の中も悪魔除けだらけなのだが、結界のないメリエ・セラスではどうしても防ぎきれないのだろう。
「で、悪魔憑きはまだいる?」
リゼに尋ねられて、アルベルトは首を横に振った。来てすぐの頃は暗い雰囲気に包まれていた院内が、今は清涼な空気に満ちている。悪魔が全て祓われたからだ。彼女一人の手によって。
もはや見慣れた光景だ。どんなに澱んだ場所も、彼女の放つ光で明るく照らされる。
リゼが全ての悪魔祓いを終えた後、二人は迎賓館に戻るため用意された馬車へと向かった。
グリフィスは執務のため一足先に戻ったらしい。兵士に案内されて、リゼとアルベルトは病院を出る。用意された馬車に乗り込もうとした途端、リゼの身体が傾いだ。
反射的に手を伸ばし、転びそうになったリゼを支える。いや、転ぶというより倒れるといった方が正しいか。リゼも想定外だったらしく、ぼんやりと自分の足元を見つめている。アルベルトはリゼを立たせると、彼女に問いかけた。
「大丈夫か?」
「――ええ、ちょっと疲れただけ」
リゼは何でもないという風にアルベルトの手を押しやり、振り向きもせず馬車のタラップに足をかける。その様子にアルベルトは苦笑しつつ、彼女に続いて馬車に乗り込んだ。
かたん、と動き始めた馬車が揺れる。メリエ・セラスの大通りは綺麗に舗装されているが、風や人に運ばれた砂が山になって、車両を揺らすことも少なくない。時折揺れる馬車の座席に身体を預けながら、アルベルトは正面に座るリゼを視た。
ちょっと疲れた、という言葉通り、リゼが纏う輝きは少しばかり弱まっている。ここ数日間、毎日悪魔憑きを癒していたのだから当然だ。この広いメリエ・セラスの悪魔憑きを、一人で。
「――俺が悪魔祓いを手伝えたら、君にそんな無理をさせることもないのに」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ 作家名:紫苑