Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ
動き辛そうながらも刺繍を続けるシリルの前には一冊の本が開いて置いてある。載っていたのは縫い方を指示する図が複数。シリルの分は手本に近いものに仕上がっているが、ティリーの方はというと、何を刺していたのか分からない代物が出来上がっていた。
「刺繍って難しいですわねー。わたくしにはさっぱりですわ」
諦めて針と糸を放り出したティリーの横で、シリルは神妙な顔で刺繍を続ける。しかしかなり苦戦しているようだ。何度も本と手元を見比べながら悩んでいる。その様子を見ていたリゼは、何気なくシリルの手元を指さした。
「――ここはそっちじゃなくてこっちよ」
針を刺す場所を示すと、シリルは驚いたのか目を丸くした。リゼを見つめて何度か瞬きした後、我に返ったのか手元に視線を落とす。シリルはリゼの指さした先に針を置き、しかしやはりそれだけでは分からなかったのか、針先を迷わせた。
「ええっと、こうですか?」
「貸して」
リゼは布と針を受け取ると、手早く実演して見せた。シリルに分かりやすいように、ポイントを押さえながら図面通りのものを刺していく。出来上がったものを見て、シリルは目を輝かせた。
「すごい。リゼさん刺繍お上手なんですね!」
「……まあそれなりに」
そう呟くと、針と糸を持て余したティリーが横から顔を覗かせた。
「刺繍が得意だなんて意外ですわ。こういうの、苦手そうですのに」
「刺繍以外の“こういうもの”は苦手だけど、煎じ薬を作ろうとして鍋を爆発させるほど不器用じゃないから」
家事くらい、と主張する養育者の一人に家事全般を仕込まれたから、知識と技術だけならある。身についたと言えるのは、裁縫ぐらいだけれども。
「刺繍、お好きなんですか?」
「別に。――母さんが得意だったから」
出来るようになりたかった。たったそれだけの、下らない憧憬だ。刺繍ができるようになったからって、母親のようになれるわけでもないのに。自嘲しながら作ったばかりの縫い目を目で追っていると、突然目の前に針と糸が差し出された。
「リゼさんも一緒に刺繍しませんか?」
きらきらした瞳で見つめられて、リゼは思わず針と糸を受け取る。刺繍するって、何を縫えばいいんだ。本に載っている図案でも縫えばいいのか。刺繍は得意だが趣味ではないので、一緒にやろうと言われても困る。針と糸を握りしめたまま、にこにこしているシリルの顔を眺めていると、ふと扉がノックされる音が響いた。
「お茶をお持ちしました」
入室してきたのは、この迎賓館のメイドだった。どうやらシリルが呼んだらしい。慌ててテーブルを片付けると、メイドに「お願いします」と声をかけた。静かにカップ一式を運んだメイドは、テーブルにてきぱきとカップとポッドを並べていく。カップに注がれたお茶からは芳醇な香りがした。ティリー曰く、このお茶はミガー東部で栽培されている最高級のものらしい。香りが良いことくらいしか他との違いが判らないが。
「ありがとうございます」
茶の準備が終わると、シリルは嬉しそうに微笑んで礼を言った。メイドはきっちり編んだ黒髪で飾られた頭を下げて、またも静かに退室していく。刺繍セットをテーブルの隅に片付けたシリルは、楽しそうに白いカップを手に取った。
予備のカップも用意していたのだろうか。茶はきちんと三つ用意されていた。ここ何日かで嗅ぎなれてしまった香りがリビングに広がっていく。シリルはミガー産のこの茶が随分と気に入ったらしく、頻繁にお茶会をしているのだ。リゼも、何度か付き合わされている。楽しそうに茶を嗜んでいるシリルを見つつ、せっかくなのでリゼも茶を啜った。やはり、香りが良いことしか分からない。そう思いつつ茶を飲んでいると、がちゃりと客室の扉が開いた。
「ただいまー」
入室してきたのはゼノ。そしてアルベルトとキーネスだった。確かゼノの訓練に付き合ってきたのだったか。ゼノは疲れた様子な上、砂だらけだ。さすがに汚れを持ち込むのはまずいと思ったのか、ゼノは着替えてくると言って隣室に引っ込む。アルベルトもそうするかと思われたが、その前に、彼はリゼ達のいるテーブルへと近付いてきた。
「焼き菓子を買ってきたんだが、食べないか?」
そう言って彼が差し出したのは、やけに可愛らしいマフィンの詰め合わせだった。数量からして全員で食べることを想定しているのだろうけど、わざわざこうして差し出されると、なんとも言えない気分になる。
「……だから子供扱いしないでよ」
「す、すまない。そういうつもりでは……」
「わかってるわよ。そういうつもりじゃないことぐらい」
あのアルベルトがまさか意識してそんなことをしているわけがない。天然だからタチが悪いのだ。その上、普通の菓子ならともかく、アルベルトが持ってきたマフィンは、
「案外少女趣味なのね」
そう言いたくなるほど可愛らしかったのだ。彼が自分で選んだのだとしたら少女趣味すぎる。ドライフルーツと色とりどりの――砂糖細工だろうか? それらは丸く膨れたマフィンの頂上を彩っている。こういう可愛らしいもの、少女は好きだろう。例えばさっきからきらきらした目でマフィンを見ているシリルとか。
「店の人のお勧めなんだ」
「……そう」
まあそうなのだろうなと思いつつ、リゼはマフィンを机の上に置いた。まあアルベルトのことだ。どれにしたらいいか分からないから素直に聞いたのだろう。封を解かずにいると、「全員分あるからどうぞ」とアルベルトが言った。
「せっかくお菓子があるんですから、今から食べましょう!」
張り切って声を上げたのはシリルだった。少女は楽しそうに微笑むと、部屋の隅にある呼び鈴を鳴らした。すぐにメイドが来て、用を伺う。シリルが用向きを告げると、黒髪のメイドは一礼して去っていった。
ほどなくして運ばれてきたのは、追加のカップと茶の入ったティーポッドだった。茶のかぐわしい香りが部屋に満ちる。カップとティーポッド、そしてマフィンを盛るための空の皿がテーブルの上に次々と並べられた。
「わたしが準備するので、皆さんは座っててください」
やけに楽しそうにシリルは、随分と危なっかしい手つきでお茶をカップに注ぎ始める。悪魔除けのせいで身体が重いからではないだろう。まずお茶を注ぐという動作そのものに馴染みがないようで、注ぎ口から流れるお茶が今にもカップにからこぼれそうだ。案の定、茶がカップから溢れそうになったところで、早くも隣室から戻ってきたゼノが助けに入った。
「大丈夫か!? 無茶すんな。オレがやるよ」
「ああ! 待ってください! 大丈夫です。わたしがやります!」
ポットを取られたシリルはどうにかそれを取り返そうとしたが、ゼノが渡すまいと高々と持ち上げたので、小柄な彼女には届かない。ポットを返すよう懇願するシリルとさせまいとするゼノの二人は、そのままじゃれあいのような抗争を始めた。
「騒々しい」
「まあたまにはいいじゃありませんの。近頃戦ってばかりでしたし、ゆっくりする時間も必要ですわ」
「ゆっくりなら船の中でしたでしょう」
「あれはゆっくりに入りませんわ。船の中ってどうも落ち着きませんもの」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ 作家名:紫苑