Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ
アルベルトの問いかけを遮って、リゼは料理が半分以上残っている皿を置き、さっさと洞窟の方へ歩いていく。呼び止める間もない。洞窟の奥に消えたリゼの姿を見送ってから、ゼノがぽつりと呟いた。
「やっぱ本場の人間の口には合わなかったかな……」
「心配なのはそこか? 単に調子が悪いんだろう。スミルナを出てまだ二日しか経ってない。正直言って、俺達もまだ本調子とは言い難い」
「そうですわね。あの馬鹿悪魔祓い師と馬鹿騎士どものせいで身体のあっちこっちが痛いですもの」
魔物に悪魔。悪魔祓い師に騎士。一日足らずで色んな輩と交戦したせいで、切り傷だの擦り傷だの打ち身だの、怪我のオンパレードだ。うっかり愚痴ったら大きな怪我だけリゼが治してくれたけれども(ただ感激して質問しようとしたら睨まれた)、小さな怪我でも数があるとなかなかしんどい。
「ま、シリルがダウンしたのをチャンスだと思ってわたくし達も休むしかありませんわね」
さっさとメリエ・リドスに帰りたかったが、そうにもいかなくなった。せめて休みだと思わないとやってけない。ティリーは肉の最後の一切れを掻き込むと、ふうとため息をついた。
「早くレーナが帰ってきてくれるといいんですけどねえ。あんまり野外に長居したくないですわ」
洞窟に入ると、外の喧騒とは裏腹に中は静寂に満ちていた。
洞窟の奥におかれたランプの明かりが、ちらちらと揺れながら赤い光を放っている。ふと、リゼはランプの明かりに右手を翳した。掌は炎の光でうっすら赤く染まっている。入念に手を洗ったおかげか、汚れはどこにもない。だが鼻に掌を近づけると、わずかに獣と鉄の臭いがする。洗っても簡単に落ちない血の臭い。それを知覚して、胸の奥がざあっと冷える。血の臭いにはもう慣れたはずなのに。握りしめた手を振り下ろして、リゼは目を閉じた。
視覚を絶つと、風の吹き抜ける音に混じって別の音が聞こえてくることに気付いた。小さく、不規則な、すすり泣くような声だ。歩を進めると、声は次第にはっきりと聞こえてくる。リゼは少し速度を速めつつ、静かに声の主へ近づいた。
洞窟の奥に作られた寝床の中で、少女は小さな身体を丸め、細かく震えていた。毛布の中に顔をうずめ、まるで何かから隠れようとしているかのようだ。しかしリゼが近づいたことに気付いたのか、少女は僅かに顔を覗かせて、こちらを見上げた。
「どうしたの」
涙に濡れた目を向けたシリルに、リゼは静かに問いかけた。闇の中、ランプの明かりが少女の濡れた瞳に光を映している。その煌めきは少女にふさわしく、静謐で柔らかい。だが、彼女の瞳は悲しみと恐怖に彩られていた。
「怖い夢を見たんです」
シリルは縋り付くようにリゼに抱きついて、うわ言のように呟いた。
「女の人が目の前で亡くなって、悪魔がたくさんやってきて……皆、死んじゃうんです……」
ぼんやりと語りながら、シリルは目を閉じる。小さく華奢な身体は熱のせいで酷く熱い。震える背を宥めるようにさすると、閉じた目から透明な滴が零れ落ちた。
「怖いんです。すごく怖い。家に帰りたい。父上と母上と兄上に会いたい。一人ぼっちで修道院に閉じ込められるのは嫌です。皆さんと離れ離れなんて嫌なんです……!」
震える声で訴えるシリルをリゼはただただ抱きしめる。子供の慰め方など分からない。そういうのには向いていない。けれど何もしない訳にはいかなくて、例えば世の母親ならこうするだろうという憶測の下、ゆっくりとシリルの背をさする。
「夢よ。それはただの夢」
そう、悪夢だろうと夢は夢。怖がる必要なんてない。何も恐れる必要はない。悪い夢は白紙に。良い夢はたくさんに。おまじないが必要なのは、リゼではなくシリルの方だ。彼女は庇護されるべき――子供なのだから。
「大丈夫。誰もあなたを一人ぼっちになんてしないから。悪い夢は忘れてしまいなさい」
すすり泣く少女を抱えながら、リゼはランプの炎を見つめた。火屋の中で揺れる炎は小さいながら赤く輝いて、綺麗だとすら思ってしまう。綺麗だ。綺麗すぎて、現実味が薄いぐらい。現実でなければいいのに。平和に暮らすのに不都合なことなど、みんな現実でなければいい。
シリルの体質も、発熱も、教会の追跡も、悪夢も、血の臭いも。
この世を脅かす悪魔の存在も。
次の日。
再び野草採集に出かけたアルベルトは、新しく見つけた煎じ薬用の薬草を持ってシリルのところへ向かった。洞窟の奥に入り、右手へやや折れたところにシリルの寝床はある。そこではリゼとティリーがシリルの看病をしていた。昨日摘んだ薬草を煎じ薬にしてくれたらしく、緑色の液体が入った椀や匙、薬を作るのに使ったと思われるものがところどころに散らばっている。今朝方見に来た時よりどことなく荒れているのが気になったが、アルベルトはそれには言及せず、二人に声をかけた。
「リゼ、ティリー。お疲れ様。代わろうか」
「さっさと代わって。ティリーじゃ看病の役に立たない」
そう言ったのはリゼである。彼女は呆れた様子で頬杖をつき、ティリーに視線を投げた。じとっと睨みつけられて、ティリーは大げさに肩を落とす。
「わたくしだって必死に頑張ったのに、役に立たないは酷いですわ……」
「怪しげな薬を調合しようとしたり怪しげな治療法を試そうとしたりするののどこが看病の役に立ったと言えるのよ。結局林檎の皮も剥けなかったし」
ティリーの前には、いびつな円柱形をした林檎(樹になっていたのをたまたま見つけた)が二つほど転がり、その脇には果肉がたっぷりついた皮の残骸が山を作っている。どうしてこうなったのか、細切れになってしまっているのでジャムにでもするしかなさそうだ。
「だから私が剥くって言ったのに」
非難の色を乗せてリゼが呟くと、ティリーはぱっと顔を上げた。彼女は腰に手を当て、子供を叱る母親のようなしかめっ面になる。
「いけません。怪我人は大人しくしていないと!」
怪我人? 驚いてリゼの方を見ると、彼女はティリーに負けないしかめっ面をしていた。リゼはティリーに厳しい視線を向け、非難を込めて言い放つ。
「怪我と言うほどの怪我じゃないし大人しくしていられないのはあなたのせいでしょう」
「ざっくりやったくせに何を言ってるんですの。ほら、血の気が引いてるじゃありませんか。お手入れなんてしてないくせにこんなにお肌真っ白で! 羨ましいですわ!」
「生まれつきよ。というか今その話関係ないでしょ」
そう言って、リゼは呆れたように溜息をつく。ティリーはしかめっ面のままで心配しているのかしていないのかわからない。なお、肝心のシリルはティリーが林檎と格闘している間に寝てしまったらしく、安らかな寝息を立てていた。
「少し熱が下がったみたいよ。まだ安心は出来ないけど」
眠っているシリルを一瞥して、リゼはそう言った。薬草を飲ませたのが功を奏したのか、シリルの容体は安定してきたようだ。
「ほら! わたくしだって多少は役に立ったじゃありませんの! 煎じ薬を作ったのはわたくしですから」
「あなたがやったのは薬草をすりつぶしたことだけでしょう。煎じ薬が半分駄目になったのは誰のせいよ。だから邪魔になるだけなら引っ込んでてって言ったのよ」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ 作家名:紫苑