切れない鋏 5.武の章 不協和音
何ひとつ抵抗しない小雪を見つめていると、この後に及んで罪悪感が噴き出してくる。言ってからまた悔やんだ。小雪が「やっぱり帰る」と言いだしたら、自分はどうするつもりなのか、見当もつかなかった。
小雪は首を横にふった。武の腕にしがみついて、胸に顔をよせる。
目眩がしそうなくらい、小雪の甘い香りが全身を満たしていく。
首筋に口づけて肩にかけていたロングカーディガンを下ろそうとしたとき、自分の手が微細に震えていることに気づいた。何事もなかったように小雪の服に手をかけても、体の内側からこらえられない振動が襲ってくる。
「……タケ兄?」
「……俺はおまえが望んだ有川武じゃない。本当の跡継ぎでもないし、愛美の兄でもない。もう……トランペットを吹くこともできない」
頭が熱くなって視界が霞んでいく。力いっぱい小雪を抱きしめたいのに、腕に力が入らない。いつだってトランペットを握っていた手のひらは情けなく脱力して、大切にしたかったものが剥がれ落ちていく。
喉の奥からこみ上げてくる嗚咽をこらえていると、小雪の両腕が武の体を包んだ。
「私は……このままのタケ兄がほしい」
小雪の声が優しく鼓膜に響く。冷たいけれどやわらかな指先が首筋にあたって、熱を送ってくる。
たまらなくなって「ユキコ」とつぶやいて耳に口づけようとすると、小雪の身体が離れた。密着していた二人の間に冷えた空気が流れていく。
「だからもう、そんな風に呼ばないで。私のこと、ちゃんと見て」
薄茶色の瞳の奥に、強い意志が見えかくれする。武が目を背け続けてきた、慎一郎と同種のまなざしだ。この瞳に見つめられると、二十年以上かけて築いてきた防波堤を崩されるような心地がして、逃げだしたくなってしまう。
壊すのが慎一郎なら耐えられる。ハリボテだとわかっていてもまた一緒に築いてゆける。
小雪に崩されたら、理性で積み上げてきた未来はもう二度と築けない。剥きだしの感情をぶつけあって、絡まりあいながらどこまでも堕ちてしまうだろう。
だから慎一郎の存在が必要だった。ごまかさないと生きてこられなかった。小雪の生の感情にふれる覚悟などなかった――目をそらそうとすると、小雪の手が武の頬を包んだ。
「タケ兄が私にシンの姿を重ねてるのには気づいてた。そのおかげで一緒に過ごせる時間があるならそれでいいとも思ってた。でも私はシンじゃない」
いつもより早い口調で小雪がそう言う。武の心臓はどんどん押しつぶされていく。
気づかれていた――小雪を抱き枕のようにして眠るときの、自分の愚かな目論見も、浅はかな算段も――
小雪は慎一郎じゃない。そんなこと、ずっとわかっていた。慎一郎が生きていた頃、二人が同一の人物だと感じたことなど、一度もなかった。
愛美と同様に、兄らしく二人の明るい未来を待ち望んでいた時期もあった。
三兄弟で気持ちよく純正律の和音を鳴らしていたところに小雪が加わった。ジャズのブルーノートのように第三音を半音さげたところにぴたりとおさまって、心地いい調和を保っていた。
それなのに慎一郎は死んだ。自分が生きるはずの未来から消滅してしまった。ずっと近くで笑っていた小雪から笑顔が消えた。末っ子の愛美との間に埋まらない空白ができ、両親の眼差しにはどこか影がさすようになってしまった。
身体はバランスを失って、真っ直ぐに立てなくなった。
小雪の中に慎一郎の残骸を探すことは、彼女の心を壊していくとわかっていてやめられなかった。鳴り始めた不協和音は、慎一郎の面影を取り戻すことでしか消えなかった。
いつから間違っていたのだろう、と後悔ばかり押しよせてきて武は首を垂れた。
けれど小雪はそれを許さなかった。
「私のこと、ちゃんと見てよ」
聞いたことのない強い発声だった。小雪は涙をこぼしていた。奥歯をかみしめながら武を見つめていた。感情をさらけだしてぶつかってきていた。武は身じろぎひとつできず、黙ってその顔を眺めた。よく伸びたまつげや、小さな鼻は小雪のものだった。張りつめた皮膚も、その下に潜む体温もまぎれもなく彼女のものだった。
手の甲に落ちる涙が温かかった。小雪は生きて目の前に存在して、武を待っていた。
震えを飲みこんでくちづけようとすると、彼女の薄いくちびるが先にかぶさってきた。
ぬめった口腔内も吐息もやけどしそうに熱くて、くだらない想像を溶かしていく。
二人が交わっても、未来は変わらない――変わるのは俺自身だ。
そう確信して、小雪の服をはぎ取った。女の服を脱がすことなど慣れた行為のはずなのに、もどかしくて何度も小雪の皮膚を引きつらせながら、肌を重ねあった。
真っ白な雪が武の身体に降り積もっていく。冷たくて、でも温かくて、際限なく求めた。
「小雪」
初めて呼ぶその名前が脳内で膨張して何も考えられなくなってしまう。武の指の動きに反応して、小雪のなめらかな皮膚は赤く染まっていく。
ゆっくりと彼女の中に侵入したとき、「武」と消え入りそうな声が聞こえた。肌をあらわにした小雪が眉をしかめて武を見ていた。交わったまま、ゆっくりと肩を抱いた。
生みの親がつけた名前は、優しく胸の奥に響いていく。
「もう一回呼んで」
身体を動かしながら耳元でそうつぶやくと、小雪は声をかみ殺しながら首をふった。
「なんで?」と聞くと「恥ずかしいから」と言った。下半身を押しこめながら「小雪、もう一回」と言うと、彼女は顔を真っ赤にして口を横に結んだ。こらえきれない声が漏れ出して、武はきつく抱きしめた。
小雪の甘い声が「武」と発声するたび、脳髄が溶け落ちてしまうのではないかと思うほど快感が駆け抜けていく。「小雪」と口にするだけで、理性が吹っ飛んでしまいそうになる。
行為の最中に名前を呼びあうことが、こんなにも満ち足りた気持ちを生んでくれることを初めて知った。薄茶色のくせ毛に指を絡ませると、小雪を抱いた男の影がちらついたりしたが、やわらかな声がそれを全てかき消してくれる。
何度果てても欲望の芽は次々とふきだして、尽きることなく抱き続けた。
小雪がぐったりと体を横たえる頃には、すっかり部屋は暗くなっていた。
白い肌は暗闇にも映えて湿り気を帯びていたが、指先が冷えはじめたことに気づいてエアコンのスイッチを入れた。
「……今、何時かな」
シーツの中にいた小雪がつぶやいた。いつもの癖でぜんまい式の掛け時計を見上げたが、当然のように止まったままだった。秒針を動かす歯車の音色がない室内は静かで、小雪がシーツの中で動くささいな音もよく聞こえた。
「巻いてみてもいい?」
そう言ってベッドの中から手を伸ばす。武はすでに服を着ていたが、小雪はまだ何も身に着けていない。シーツがずり落ちて、胸があらわになった。
あわててかくすそのしぐさが愛おしくて、腕の中にすっぽりと包みこんだ。
「いいけど、壊れてるかも」
そう言うと、小雪は武の腕にからめとられたまま服を探し始めた。産毛の生えたうなじを見ているとまた欲情してきて、口づけた。小雪の背中がびくりとはねる。
「もう。ぜんまいちょうだい」
作品名:切れない鋏 5.武の章 不協和音 作家名:わたなべめぐみ