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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 5.武の章 不協和音

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 やり残したことなどもうない、と思えるまで通いつめた。言葉に苦労することはあっても、全身にまとわりつくどす黒い靄のようなものは次第に晴れていった。

 そんな折に、のちに婚約者となる女性と出会った。彼女は日本で有名なインテリア会社の一人娘で、社内に新しい風を吹きこむためアメリカに視察に来ていたらしい。

 毎夜姿を見せる日本人トランぺッターが、ファストファッション業界の波に飲まれそうになっている老舗アパレルメーカーの息子だとわかると、お互い協力できることはないかと食いついてきて、すぐに意気投合した。

 周囲の動揺をよそに、結婚の話はとんとん拍子に進んだ。業務提携という名の吸収合併に近い形で、彼女の店に自社の服を置いてもらえることになった。地元に数店舗かまえるだけの有川の会社に対して、彼女のインテリア会社は全国展開している。ウェブサイトも好調で、会社を立て直すにはこれ以上ない話だった。

 現地でジャズに触れることができ、将来への展望が明るくなったことで、日本に戻ってきたときは平静な自分を保っていたれた。小雪と信洋が付き合っていることを聞いても、それが小雪の支えになるのならと多少の動揺だけですんだ。

 武を睨みつける信洋を見下ろし、おまえに何か言われる筋合いはない、と考えているとまた狂暴な気持ちがふくらんできた。

 すばやく小雪を抱きよせ、信洋が「あっ」と言った瞬間にはくちづけていた。
 怒りに震えても、そのこぶしは武をめがけて打ってきたりはしなかった。殴られてやるつもりで手を出したのに、この男はなお自制心を保とうとするらしい。
 髪の毛をふり乱すようにして間に割りこんできたのは愛美だった。

「ノブを傷つけるようなことするの、もうやめてよ!」
「だったらおまえが慰めてやれよ」

 人の世話ばかり焼いて自分の気持ちには鈍感な妹が、驚いたように目をしばたたかせて兄を見上げた。今初めて恋心に目覚めたような素っ頓狂な顔で、信洋を見る。

 信洋は困惑していた。助けを求めるように小雪に視線を送っていたが、小雪は驚いていなかった。愛美の本心には気づいていたのだろう。

 次の瞬間、武は頬を打たれた。手を上げたのは愛美だった。耳から首元まで皮膚を真っ赤に染め、怒りにわななきながら涙をこぼした。

「お兄ちゃんも小雪も、だいっきらい!」

 兄弟ゲンカで何度も言われたそのセリフが、胸を貫いていく。泣きながら走りさっていくうしろ姿は、幼い頃と変わっていない。けれど慰めてくれる次兄はもういない。

「もう……こんなことおしまいにしよう」

 そう言ったのは信洋だった。愛美を追うタイミングを逃してしまった小雪は呆然と突っ立っていた。他の部員の目を避けたかったのか、信洋は小雪と武を練習室に押しこめた。
 信洋は大きく息を吐きだすと、低い声で言った。

「小雪の気持ちが俺に向いてないことくらい、気づいてたよ。だから、武さんと行くっていうならもう引き止めない。でも少しでも俺に気持ちがあるなら……」

 言葉が続かない。小雪は信洋を見ている。続きを待たず、武はひとりで練習室を出た。
 別に信洋を傷つけたいわけじゃない。あいつはいいやつで、真っすぐに俺を尊敬してくれる。ただの先輩後輩なら、ずっと可愛がってやるつもりだったと、考えても仕方のないことが溢れ出してくる。

 廊下の隅で愛美がしゃくり声を上げている。通りがかった部員が愛美に声をかける。
 誰かにすがり、ぐずぐずと泣いて気持ちを立て直すのは愛美の得意技だ。放っておいても問題はない。武は痛みの残る頬をなでた。優しい兄など、もう必要ない。

 第四練習室の扉はしばらく閉じたままだった。小雪がどんな答えを出したとしても、自分は車で待つほかないと思い、音楽練習棟の外に出た。



 しばらくして小雪が姿を見せた。フロントガラスの向こうで、ニット帽とマフラーを身に着けた小雪が微笑んでいる。
 助手席の扉を開けると、しずかに足をすべりこませた。

「……いいのか?」

 武がつぶやくと、小雪はマフラーをはずして息をついた。

「やっと……けじめつけられたから……。愛美にはまた今度謝らないとね」

 そう言って笑顔を作ろうとした。髪を触りながら眉を下げるしぐさがあまりにも慎一郎に似ていて、武はその名を呼びそうになった。小雪の動作が止まる。悲しげに視線を落す。

 たまらなくなって、武は運転席から身を乗り出して小雪にくちづけた。

「どこ行くの?」

 口を離すと小雪がぽつりと言った。武は運転席に体を沈め、サイドブレーキを解除した。

「やっぱ牛丼屋かな」
「なにそれ。さっきディナーウィズ弾いてたから?」
「そう。あーでも、病み上がりの身体にはキツイわ。俺んちでいい?」

 アクセルを踏んでゆっくり車を発進させると、小雪はこくりとうなずいた。 最初からそのつもりだったことには、きっと気づいているだろう。

 何気なくカーステレオのスイッチを押すと、『モーニン』が流れ始めた。小雪たちとコンボを組んだ夜から、ずっと差しかえていなかったらしい。信洋と紗弥と愛美と、いろんな顔が矢継ぎ早に浮かんで、スイッチを切った。この曲をやりたいと思ったあの時と、もう同じ気持ちでは曲に向かえない。呼吸をするようにトランペットを吹いていたことすら懐かしく思えて、胸がきしむように痛かった。



 一週間ぶりの自宅は、思いのほかすっきりと片付いていた。キッチンのシンクをのぞくと、汚れた食器や生ごみの類がなくなっている。ベランダに出していた大きなゴミ袋もなく、ここに服を取りにきた母親が片づけたのだと思い当たった。

 三つ折りになった布きんや、角をそろえて積まれた雑誌が、実家にいた頃を思い出させる。慎一郎が生きていた頃は早く自分だけの部屋が欲しかったのに、ひとりになれば物足りなさばかりついて回る。

 寝室にしている六畳の洋室にトランペットケースを置くと、小雪がコートを脱いだ。途端にやわらかいにおいが満ちて、張りつめていた気持ちがゆるんでいく。

「時計、止まっちゃってるね」

 小雪は古い巻時計を見てそう言った。武が有川家に引き取られるずっと前から動いていたという時計が、静かに武を見下ろしている。今どきの時計に比べると秒針の音が大きくて、一人暮らしの空虚な空間を慰めてくれていた。

「巻かなくていいの?」

 そう言ってふり返った小雪に腕を伸ばした。積もったばかりの新雪のように白い肌は、驚くほど冷たかった。温めてやりたくて、両手で頬をつつむ。

「もういいんだ」

 セッションの朝、時計の中で何かが外れるような音がしていた。そのせいなのか、自然に止まったのかはわからない。けれどもう時間を進めたくなかった。
 停止した時間の中で小雪といられればそれでよかった。

 小雪を抱きかかえてベッドに座らせる。カーテンを閉めたままの薄暗い部屋の中で額にくちづける。その時、ニットカーディガンの中に入れたままだった携帯電話が振動した。

 画面を見ずに電源を切った。ロングTシャツ一枚になって、ベッドに足をかける。

「……後悔するぞ?」