切れない鋏 5.武の章 不協和音
子どものように頬を膨らませて訴えてくる。武が喉を鳴らして笑っていると、小雪は素早く服を身に着けて、ぜんまいをしまってある引き出しを開けた。
「シンのチューナーと……これは何が入ってるの?」
小雪が見つめていたのは、古ぼけた薄い箱だった。年季の入った染みがついている。
武はゆっくりと立ち上がると、箱を取りだした。中から錆びた裁ち鋏が姿を見せる。
「……たぶん、母親が使ってたやつ」
そう言いながら、指先で鋏をなでた。少し触れるだけで錆びのにおいが鼻を刺激する。
小雪がのぞきこんでくる。武が箱を持ってベッドに腰掛けると、小雪も隣に座った。
「そういや紗弥のこともちゃんと話してなかったな」
静かにそう言うと、小雪はゆっくりとうなずいた。
「紗弥が両親のどちらとも血がつながってないことは聞いてるな?」
小雪は真剣な面持ちでうなずいた。紗弥が武と同じく養子として引き取られたあと、養父が建設現場で事故死したことは、紗弥の口から話してあると聞いていた。
ようやく作動したエアコンが温かい空気を吐きだし始める。
「俺と紗弥は同じ施設の出身なんだ。あいつの生い立ちの詳しいことは知らないけど、自分のことは施設の人間に聞かされた。俺は二歳くらいまで生みの母親のもとで生活してたけど、あるとき俺を残して夜逃げしたんだ。不審に思った近所の人間が通報してくれたおかげで、俺は保護された。そのとき唯一持ち出したのが、この鋏らしい」
久しぶりに持つ鋏はずしりと重かった。過ぎた年月の分だけ錆をまとって、過去を青黒く塗りつぶしていく。
「鋏はあるけど母親の記憶はない。父親は誰なのかもわからない。紗弥は気づいたら隣にいた。施設の生活は忘れたいくらいひどかったけど、餓死しないだけでもマシだった。紗弥が泣くのを我慢してるのを見てたら、俺は男だから泣けないって思った。悔しくて歯噛みするときも、嬉しくて声をあげる時も、たえられなくなって泣きつぶれるときも一緒だった。先に俺が引き取られることになって、その後の紗弥がどう過ごしていたのかはわからない。けど大学に進学したときに偶然再会して、そのときは本当にうれしかった」
裁ち鋏を見つめていると、忘れかけていた辛い記憶が次々とよみがえってくる。けれど記憶の糸のあちこちに、幼い頃の紗弥の笑顔や、赤ん坊の慎一郎を迎えた時の気持ちや、愛美が生まれた時の何とも言えない喜びの感情が入り混じっていて、捨てることができなかった。
「愛美が連れてきた友人のうちの一人が、紗弥の血のつながらない妹だって知ったときは本当に驚いた。ただでさえでも弟に似たやつがいるなと気になってたのに」
武は小雪を見つめた。あの頃は自分のことで手一杯だった。未来は希望に彩られて、野望と野心に満ち溢れていた。あの時の小雪は妹の友達で、紗弥の妹だった。頻繁に実家に遊びに来ては夕食を共にして、妹が一人増えたような、くすぐったい気持ちを抱いていた。
さっさと告白しろよ、と慎一郎をそそのかしたこともある。けれど他人とは思えないほどよく似た二人が結ばれることに、ほんのわずかな違和感もあった。
ささいな懸念など吹き飛ばしてしまうくらい、有川家は若いエネルギーで満たされていた。中心にいたのは慎一郎だった。養子だという気負いを全く感じさせない底抜けに明るい笑顔が、武のひねくれた心を慰めてくれた。
慎一郎がいなくなって、小雪の笑顔を切望している自分に気づいたとき、もう後戻りはできなくなっていた。
鋏の持ち手に指を入れる。ゆっくりと開いてみた。刃先はそれほどこぼれていない。力をこめると、刃と刃が合わさる小気味よい音が鳴った。
「こんなもの持ってたって、何にも切れやしないのにな」
鋏を見つめたままそう言うと、小雪が体をよせてきた。
「……何を切りたいの?」
腕が小雪の胴体にあたっている。静かな心臓の音が、直に骨に響いている。
「どうしようもない生まれとか、顔もおぼえてない母親とか……俺の身体を重くするもの全部……トランペットさえ吹ければ他はいらないってつい最近まで思ってたけど」
鋏を箱の中に収めた。指に錆びのにおいは残っていたが、小雪の優しい香りが全てを包んでくれる。
「おまえとどこでつながってるかわかんないから、切るのはやめとく……」
小雪のつむじに鼻をよせる。指で髪をすいていると、つむじが二か所あることに気づいた。こんなところまで慎一郎と同じなのかと思ったが、二人の引きあう縁が強いおかげで自分も小雪に出会えたのなら、それも悪くないと思った。
小雪にぜんまいを渡してみたが、時計内の部品が壊れているのか、やはりうまく巻けなかった。しょんぼりと肩を落とす姿が可愛らしくて、額にくちづけた。
シーリングライトのスイッチを入れると、途端に空腹を感じた。どんなに時間を止めたいと思っていても、身体は生命活動を続ける。情けなくて悔しくて足踏みをしていても、明日はやってくる。どうせなら前を向いていたい――小雪といると、自然とそんな感情が湧きだしてきく。
「腹減ったな。飯でも食うか」
「何が食べたい?」
「うーん、やっぱ牛丼?」
「まだそれ言うの?」
小雪は肩を揺らして笑った。手渡されたぜんまいは小雪の熱を吸い取って、温もりを帯びていた。震えはすっかりおさまっている。曲げた指先は無意識のうちにピストンを押すポジションになっている。
「ディナーウィズ、吹きたい?」
「今の俺には荷が重い」
すんなりとそう言うと、肩の力が抜けた。小雪はゆっくりと微笑んだ。
この世に吹けない曲などないと、自負して生きてきた。高い壁こそ登り甲斐があった。
けれど小雪の髪をなでていると、そんな尖った気持ちは消滅して、今ある自分を受け入れられる気がした。
「病人らしく、鍋でも食うか」
「家に土鍋があるの?」
「前にマナが押しかけてきたときに、実家の鍋をおいてったんだ。邪魔だから持って帰れって言っても、また来るからってしつこくってさ」
愛美は自分の武器をよく知っている。ぐずって甘えて頼りにされた人間は、誰も離れられなくなる。同時に、彼女のポジティブな思考と前向きな生き方には何度も救われてきた。それはきっと小雪も同じだろうと思うと、妙な仲間意識が湧いてくる。
荻野家では水炊きに何を入れるのか、と話しながら買い物に出た。
冷たい夜風の中に甘い花の香りが混じっている。春はもうすぐそこまで来ている。
作品名:切れない鋏 5.武の章 不協和音 作家名:わたなべめぐみ