切れない鋏 5.武の章 不協和音
新入生歓迎のライブに来ていた小雪を思い出す。愛美の隣に座っていた彼女は、真剣な眼差しで武を見つめていた。「やりたかったのはベースだろう?」と尋ねたくなるほど、小雪はトランペットばかり見上げていた。その瞳の中に果てない憧れが秘められていることくらい、武にもわかった。
トランペットを吹く限り、慎一郎に似たあの眼差しはこちらを向いてくれる。親の跡を継ぐと決めた時も、トランペットさえやめなければベースを所有する小雪との縁が切れることもないし、自分を維持できると思った。
立ち姿をイメージしただけで情けなく揺れる指先を見ながら、正門をくぐった。
小雪は第四練習室にいた。六畳ほどの狭い空間にアップライトピアノが置かれている。愛美のハンドバッグと譜面はあったが、小雪の他には誰もいなかった。
武の姿に気がつくとベースを弾く手を止めようとしたので、そのまま弾くように指で合図をした。逡巡するあいだ少しテンポがゆるんだが、次第にもとのファーストテンポに戻って顔つきも鋭いものに変わっていった。
小雪が弾いているのはカウント・ベイシー楽団の『ディナー・ウィズ・フレンズ』だった。タイトルを聞いただけだと穏やかな夕食を想像するが、曲は期待を大きく裏切ってくれる。ベリーファーストのカウントでピアノが始まったかと思うと、冒頭からホーンセクションがユニゾンで吹きならし、トランペット隊はソロにハイノートにシェイク奏法と目白押し、最後はドラムのソロで終わるとんでもない曲だ。
武たちの練習中に慎一郎が「ライブ前に牛丼かきこんで、楽器を抱えて走るあの感じだよね」と茶化したことがあり、以来、仲間内では「牛丼やろうぜ」で通じている。
小雪が弾くと「牛丼」というよりは、ファミリーレストランのラッシュ時が思い浮かぶ。ウェイトレス姿の小雪が熱い鉄板とライスを持って走り回り、店内は明るい喧騒に包まれる。親子連れやカップルや老夫婦や、様々な人生を持った人々がひとところに集まって、わずかな団らんを持つその空間を、小雪は縦横無尽にかけ回っている。
最後のコーラスに入って、自分の指が曲通りのポジションになっていることに気づいた。1stから4ndまで全てのパートを吹いたことがあるので、脳内でトランペットセクションを組み立てることもできる。綿谷の軽快なドラムソロのあと、他のメンバーと競いあうように高々と吹き鳴らすハイノート――
小雪のベースが終わり、武は息をついた。今までは曲をイメージするたび、次はどんな風に吹きたいか次々と案が湧いて止まらなかったのに、もうあんなハイノートは出せない、そもそも握ることすら――と暗い気持ちばかりが噴き出してくる。
「……大丈夫?」
小雪が不安そうな顔でのぞきこんできた。またこの顔をさせてしまった。
愛美といるときはいつもにこやかに笑っているのに、揺れている自分の心を映し出したかのように、困惑している小雪の姿がある。
武は両腕で彼女の体を包みこんだ。練習室の埃っぽい匂いの中に、小雪の甘い香りを感じた。肩も腰もやわらかくて、慎一郎を思い出させる要素は何もない。
「おまえ今日、出番ある?」
「たぶんないと思うけど……」
「今から出られる?」
耳元でそうつぶやくと、ベースのネックを握ったままだった小雪が体を離した。
「どうしても?」
眉を下げてそう言ったので「どうしても」と返した。
小雪は息を吐きだすと、ベースを寝かせて練習室を出ようとした。
腕をひきよせ、くちびるを重ねる。小雪が小さくうめき声を上げる。
練習前に連れ出したりしない、キスなんてしない、今の関係を壊したくないとずっと自分に言い聞かせてきたのに、自制心は見る間に崩壊して小雪をふりまわしてしまう。
くちびるを離すと、彼女は口元に笑みを浮かべて言った。
「部長とパートリーダーに断ってくるね。車で待ってて」
そう言われて素直に練習室を出ようとしたところ、誰かがぶつかってきた。
目線の下にいたのは譜面を持った信洋だった。
「退院……されたんですね」
喜びと憎しみがないまぜになったような表情で信洋は言った。隣には小雪がいる。
「今からパート練習が始まるから呼びに来たんだけど……」
そう言ったあと、信洋は武を見上げた。信洋に会うのは追悼セッションの終盤に『ブラックバード』を抜けて以来だ。これみよがしなキスの現場を目撃させたあと、二人がどういう会話をしたのか全く聞かされていない。
けれどもう一歩も引くつもりはなく、小雪の手を握って廊下に出ようとした。
「ちょっと……どこに連れて行くんですか」
「出番ないって聞いたけど」
「そうですけど、お互い聞きあって練習してますから。今日は小雪に見てもらうんです」
平静を装っている信洋は笑顔を作って「なあ?」と小雪に言った。武は手を握ったまま離してはいない。鋭い視線が手に注がれていることに気づいても、離す気はなかった。
「ごめんノブ。部長のところに行ってくる」
小雪が武の手もふりきって行こうとすると、今度は愛美がぶつかってきた。
「ねえねえ、やっぱディナーウィズもやろうよ。こないだの全体練習やばかったしさ」
そう言いながら武の姿を認めると、一瞬表情が明るくなったが、場の空気を察したのか険しい顔つきになった。
「練習しにきた……んじゃないよね」
愛美の視線が、武の手元を彷徨った。普段なら持っているトランペットケースがなく、小雪の手を握っている。見る間に愛美の顔色が変わり、武の手を引き離した。
「ノブがいるんだから、こういうことするのやめてよ」
「なんで?」
しらばっくれてそう言うと、愛美の眉がつり上がった。
「ノブと小雪は付き合ってるんだから、あたり前じゃない!」
「俺はそんなの望んでないけど」
熱が出たせいで頭のネジが何本かゆるんでしまったのか、するりと本音が出た。愛美の目が丸くなっている。小雪の息を飲む音が聞こえる。
「おせっかいなおまえが勝手にくっつけたんだろ?」
「……タケ兄には関係ない!」
愛美は泣き出しそうな顔でそう叫ぶと、小雪の腕を握った。連れ出そうとする気配を感じたので、愛美の肩をつかんで言った。
「どうして俺が嫉妬しないって思える?」
愛美の動きが止まった。何を言われたのか理解できないという面持ちで武を見上げてくる。小雪の視線も、愛美の視線も自然と信洋にそそがれた。彼は唖然と立ち尽くして、武を見ていた。
「何……言ってるんですか?」
「さあ。自分でもよくわかんねえな」
「小雪が苦しんでたとき、あなたはいなかったじゃないですか。何を今さら……」
信洋の声が震えている。半年ほど音信不通にしていたときのことを言っているらしい。
あの時は、父の計らいでニューヨークに留学していた。跡継ぎになるための研修という名目で、日本から切り離してくれたのだ。会社の伝手もあって昼間は現地のファッション業界を訪ね歩き、夜はジャズライブハウスに入り浸る生活を送った。初めはよそよそしかった現地プレイヤーも数ヶ月通えば顔をおぼえてくれ、トランペットを持っていけばセッションにも参加できるようになった。
作品名:切れない鋏 5.武の章 不協和音 作家名:わたなべめぐみ