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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 5.武の章 不協和音

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 体に染みついた動作でマウスピースを口にあてる。久しぶりの刺激に脳が反応する。少し違和感をおぼえて一度口を離したが、リムの内側には問題ない。二本指をくちびるの端にあてる。アンブシュアが崩れているわけでもなさそうだ。

 いつもより丁寧にリップスラーをしてから、マウスピースを本体に取りつけた。

 立ち上がってトランペットを構える。ゆっくり目を閉じる。

 息を吹きいれようとしたその時、何者かに魂を引き抜かれたかのように、全身から力が抜けていった。マウスピースの中のくちびるも勝手に震えて、言うことをきかない。

 病み上がりだから体のコントロールがうまくいかないだけだ、と改めて構えなおしたが、なぜかトランペットを固定できない。

 額から生ぬるい汗が落ち、目を閉じる。無意味な震えをこらえようと振りかぶっても、また腕が落ちていく。
 繰り返すうちに膝から下も力が抜けて、床にへたりこんでしまった。

「……どうした? 具合悪いのか?」

 ふと首を上げると、ほうきを持った綿谷が上から見下ろしていた。

「……どうって……別に」

 思考がうまく回らず、それ以上の言葉が出てこない。
 かろうじてトランペットを離さずにいたが、ベルの先が床についてしまっている。

「おまえ、まだ熱があるんじゃないのか?」

 綿谷はそう言って額に手を当てる。熱なんてない、と言おうとしても舌が動かない。
 そばにあったテーブルにしがみついて立とうとすると、綿谷が支えた。
 腕は脱力しきって、トランペットを握っていることすらできそうになかった。

「すみません、あそこにあるケース……取って」

 カウンターのあたりを指さしたあと、指先が震えているのをかくそうと手の中に折りこんだ。綿谷はすぐにハードケースを運んできて、テーブルの上に広げてくれた。

 マウスピースを引き抜いたとたん、ろうとの形に似たそれが床に転がり落ちてしまった。手入れの行き届いた板張りの床に鈍い音が響く。何が起こったのか理解できず呆然と突っ立っていると、綿谷は落ちたそれをエプロンで拭いてケースに収めてくれた。

「まだ本調子じゃないんだろ。俺の車で送ってってやろうか?」

 綿谷は武が握ったままにしていた本体も取り上げてケースに入れると、椅子をひいた。
 ケースの蓋が閉じる音がして、武は息を吐いた。留め金具に触れる指がまだ揺れている。

「いえ……ちょっと行きたいとこあるんで」
「その体でどこに?」
「体はもう治ってますよ」

 武が力なく微笑むと、綿谷はため息をついた。言い出したらきかないのはお互い様なので干渉することもされることもないが、彼が気遣ってくれていることは十分伝わってくる。

 椅子に座って呼吸を整えていると徐々に気力が戻ってきて、何事もなかったように立ち上がることができた。綿谷にコーヒーでも飲んでいくかと聞かれたが、断った。

「紗弥ちゃんの結婚祝、持って帰れよ」
「いりませんよ」
「持ってってくれないと、困るんだけどなあ」

 客の入りが悪くてチャージを受け取らないときと同じような調子で綿谷は苦笑した。

「店で使ってください」
「そんなことしたら、すぐに紗弥ちゃんにばれるよ」
「俺のかわりに怒られといて下さいね」

 軽口をたたくうちに脳内に酸素が巡ってきた。綿谷のパンチが肩にあたる。くすぐったくなってしばらく笑っていたが、綿谷は元の固い表情に戻ってしまった。

「無理するなよ」
「綿谷さんこそ。急性アル中になっても、俺はもういませんからね」

 大学時代、ライブ後の高すぎるテンションのままで酒を飲み続けた末、綿谷が急性アルコール中毒になって救急車で運ばれたことがある。ライブ前から様子のおかしかった綿谷を部員たちが止めるのも聞かず、彼は酒を浴び続けた。当然のように倒れて武が介抱している間ずっと、誰かの名前を呼んでいた。

 今思えば、ちょうどあの頃に彼の父親が急死してプロの道が閉ざされ、心の支えになるべき恋人にも別れを告げられ、自暴自棄になっていたに違いない。

 自分を潰して全てを終わらせてしまいたいという欲求は、今なら理解できる気がした。

 綿谷は耳を赤くして「それを言うなって」と笑いながら、武のトランペットケースを持ってくれた。紗弥の結婚祝いは押しつけてこなかった。正直、もう何も抱えられないと思っていた武には、綿谷の無償の優しさが痛いくらいだった。



 車に乗りこんで携帯電話を操作する。宛先は小雪だ。大学のレギュラーバンドは年末で一年の活動を終え、新年から新しいメンバーを組む。昨年は一軍バンドに所属していた小雪も、今年四回生になることもあって、二軍の練習に参加しているはずだ。

 小雪は必ずパート練習の一時間前に到着して、個人練習を始める。複数のベーシストがひとつの団体に所属していることもあり、出番のないまま終わる日もあるが、彼女が定期練習の日にバイトの予定を入れることはまずなかった。

 返事を待つ間、人差し指と中指をくちびるの端に当てた。高校生の頃、不自然なアンブシュアでハイノートを吹き続けた結果、口を壊してしまったことがあり、以来、意識して口の形を整えるようにしている。

 フロントガラスに映る口元を確認する。不自然なところはない。
空中で見えないトランペットを構え、ピストンの操作をしてみる。開放のF音から順に音階を上げていく。腕の力も指の動きも、特に変わったところはない。

 運転席のシートに身を投げ出して、息を吐いた。吹いている自分はイメージできるのに、楽器を構えられない。

 二十年以上楽器に携わっていれば、誰しもスランプに陥ることはある。武も一度や二度のことではない。ビッグバンドの中でも特に体力が必要な1stトランペットのポジションを維持するために、遊び盛りの友人の誘惑をふりきり、健康に気づかって食事を取り、自在にハイノートを操れるように鍛えてきたつもりだった。

 構えただけで震えがでるなんて――もう終わりにしろ、ということなのだろうか。

 頬の削げた自分の顔を見ながら考えていると、携帯電話が鳴った。小雪の所在を確認してから、アクセルを踏む。パート練習の前なのだから信洋もいることだろう。

 この身にとりまくわずらわしい物事をすべて切り落として、ただ小雪に会いたかった。



 山の中腹にある大学構内には木枯らしが吹いていた。入院生活の温かさに慣れていた肌が驚いて、思わず身をすくめる。敷地の境目にそって植えられた梅の木のつぼみが膨らみかけている。木立から顔をのぞかせる新芽が、春はそう遠くないと告げている。

 早くこの重苦しい季節を抜け出したい。けれど春は遠い先でいいと、矛盾したことを考える。大学現役時代、構内に咲き乱れる桜を見上げるたび、いつまでも仲間たちとこの場所で春を迎えられる気がしていた。将来への不安と期待が入り混じった気持ちさえ、心地よかった。