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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 5.武の章 不協和音

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 耳元で囁くと、小雪はくすぐったそうに体をよじった。思ったほど腕に力が入っていなかったらしく、武の腕からするりと抜けだすと眉根をよせて言った。

「大事な人ですって、言っておいた」
「……ほんとに?」

 情けないほど弱々しい声が出て、もう一度小雪の手を握った。小雪はベージュのニット帽をはずしながら、こくりとうなずいた。磨き上げたようにつややかな肌に赤みがさして、武は空いている手をその頬にそえた。やわらかくて冷たくて、温かかった。

「あんまり無理しないでね」

 そう言ってにっこり笑った口元から、白い歯がこぼれた。小雪の穏やかな響きを持った声が、記憶の琴線にふれる――兄貴、無理するなよ。

 シン――じゃない、小雪――この声を知っている、慎一郎――ちがう。

 武はとっさに腕を引いた。指先が震えだしたことに気づいて、手のひらの中に丸めこむ。

 小雪が不安げな顔でのぞきこんでくる。慎一郎と同じ色素の薄い瞳、真摯に向き合おうとするまっすぐな視線、やわらかいくせ毛、ベースを弾く細い指、ほのかに香る松脂のにおい――目の前に存在する慎一郎の姿。

 武は顔をそらして息を飲んだ。小雪の中に慎一郎の面影を見てしまったことを悟られたくなかった。

「タケ兄、大丈夫?」

 静かなその響きはますます似て、武の心をおびやかす。いない、慎一郎は死んだ。骨を焼いているところを見た、この手で確かに拾った。
小雪の指が肩にふれて、武は思わずふり払ってしまった。

 心臓の音がうるさいくらいに鼓膜の奥で響いている。腕を引いた小雪がくちびるをかんでいる。体の奥から震えが襲ってきて、声が漏れ出しそうになる。シン――血のつながりはなくても、心からわかりあえた弟。どうしておまえは小雪の中に住んでいる――

「今日はもう……帰るね。これ部員からさし入れ」

 トートバッグの中を探る小雪が無理に微笑もうとしたのがわかって、武は我に返った。

 小雪がさし出したのは、録音用のCD‐Rだった。サインペンで『追悼セッション』と書かれている。

「録音してくれた子が、タケ兄のために焼き直したって……」
「その呼び方、やめろ」

 小雪が話すのを遮って、そう言った。彼女は目を丸くしたが、何のことだか見当がついたらしく、視線を彷徨わせた。

「……だってマナがそう呼んでるし」
「俺はおまえの兄貴じゃない」

 強い口調でそう言うと、小雪は意外にもにらみかえしてきた。瞳にはうっすらと涙の膜ができている。泣き顔だけはなぜか慎一郎に似ていなくて、安堵さえしてしまう。
 腕を引きよせようとしたが、強い力で拒まれてしまった。

「私がシンに見えるから……でしょ?」

 涙をためながらそうつぶやいた姿は、確かに小雪だった。肌から香り立つ洋菓子のような甘いにおいもまぎれもなく彼女の物なのに、何度目を閉じても慎一郎の幻影が消えない。

 小雪はCD‐Rをテーブルの上に置くと、背中をむけて去ろうとした。

 今別れたらもう二度と会えないような恐怖が襲ってきて、あわててベッドから降りた。

 しかし丸二日も寝たままだった身体は言うことを聞かず、冷えた床に素足をついた途端、バランスを失ってしまった。
 ふりかえった小雪に支えられ、ベッドガードにしがみつく。震えるくちびるから「情けねえなあ」と勝手に声が漏れ出していた。打ちつけた肩に痛みが走る。

「もっとおまえと話がしたい……」

 自分勝手だと承知の上で、そう言った。自分と対面している限り、小雪は果て無く傷ついていくのだとわかっていても、他に言葉が思いつかなかった。

 小雪は何も言わずに武の体を支えてくれた。

 やっとの思いでベッドに体を乗せると、巡回の看護師が点滴を持ってやってきた。
 紗弥似の彼女だった。初対面のときよりくだけた表情で武を見下ろしてくる。

「あーら。もしかして逢引しようとした末の、転落?」

 どうやら武が転がり落ちるのを見ていたらしい。少し心がゆるんで「そうっす」と返すと、「ま。彼女も苦労するわね」と言いながら薬剤の入ったパックを吊り下げた。

 手際よく注射針の用意をしながら小雪をからかうので、いつの間にか重苦しい雰囲気はなくなって、小雪も笑っているようだった。

 結局「彼女」に認定されたまま小雪は帰り、点滴のおかげなのか夕方には熱がひいた。

 まだだるさの抜けない身体を引きずりながら、談話室にむかった。携帯電話の電源をいれて、次々とメッセージや着信履歴の処理をしていく。

 こうして目の前にあることを受け入れさえすれば、現実は滞りなく進んでいく。それでいい。そして、いつかはやってくる大切な人の死から目をそらして生きればいい――そう考えながら、夕陽のさしこむ談話室でひたすらに画面を操作した。

                 ***

 退院の朝は、薄曇りの空だった。

 同じ日に紗弥も退院するはずだったが、一度も顔を合わせることなく、武は駐車場に向かった。母がしつこいくらい「退院のときは付き添う」と言っていたが、母がくればそのまま実家に戻らざるを得なくなる気がして、断っていた。

 トランクケースを開けると、トランペットケースやミュートの類が転がったままになっている。傷だらけのケースをなでて、留め金具を外す。ジャズトランぺッターのクリフォード・ブラウンを愛していた父の影響で、中学生のときにラッカー仕上げの一代目を買ってもらった。今所有している金メッキのものは大学時代に買い直した二代目だ。

 無性に息を吹きいれてやりたくなって、『ブラックバード』に車を走らせた。

 ちょうど開店準備をしていたのか、綿谷は店の前で掃き掃除をしていた。働き者の彼は定休日も店に出て家具の手入れをしたり、商店街の組合に顔を出したりしているらしい。

「やあ。具合はよくなったのか?」

 いつもと同じ調子で作業の手をとめず綿谷は微笑んだ。アーケードに囲まれた商店街は薄曇りの暗い冬空を吹き飛ばすくらいにぎやかで、自然と気持ちがゆるんでいく。

「紗弥、来てますか?」
「それが今朝になって熱が出たらしくて、もう数日入院するらしいよ。本人は元気なんだって、ずいぶん怒ってたけど」

 そう言って黒いエプロンのポケットから携帯電話を取りだす。画面の中で、眼鏡をかけたキツネが飛び跳ねながら盛大に愚痴を連ねている。武が見たこともない長文で、読んでいるうちに胸がくすぐったくなってきた。

「結婚祝、おいたままでしたよね」
「カウンターの奥にあるよ」
「ついでに音出していいですか?」

 トランペットケースを掲げながら言うと、綿谷は「どうぞ」と言って掃き掃除に戻った。

 準備中の店内にはコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。父親の代から使っているというサイフォンが、カウンターの奥に静かに佇んでいる。前日から仕込んでいるカレーの食欲をそそる香りや、聴きなれたジャズの4ビートが全身を包んで、武は深呼吸をする。

 眠っていた細胞が目を覚ますように、感覚器官が冴えわたっていく。